みどりの牧場、行く手にあれど、いまだ我に見えじ;
やがて頭上に広がらん、輝ける空、暗き雲垂れ込めしも。
わが希望、計り知れず、わが道は自由なり;
父なる神、わが宝を携え、我とともに歩まん。
Christian Science Hymnal, #148, Anna L. Waring
「大恐慌以来、最悪の金融危機」。「ウォール街の汚職と貪欲、アメリカ経済を破滅の危機にさらす」。「アメリカの崩壊、世界市場にパニックを起こす」。もし、このような見出しを見て、一日が始まるのであれば、人は再びベッドに潜り込み布団をかぶって、すべてが過ぎ去るのを待つか、あるいは、専門家たちが何か名案を見つけてくれることに、ほのかな期待を託したいと言っても、無理からぬことと思われるかもしれない。
私たちは、経済とは、まるでそれ自身の命を持った巨大な生き物ででもあるかのように思いがちである。しかし、金融の専門家たちでさえ、経済の動向は、人間一人一人がいかに感じ行動するかに影響されるものであると認めている。もし、人々が集合的に自信を持ち、その価値を認識し、進取の気性をもって日々の仕事に勤しむならば、経済は健全に動くことが多い。もし、人々が恐怖と不信感に感染してしまうと、パニックが忍び込み、経済はきしみ、急停止する。
もちろん、単なる人間的決意から、何が起ころうと上昇志向を死守してみることはできるが、それはつかの間のバブルとなり、簡単にはじけてしまうことにもなろう。何かそれ以上のものが、絶対に必要なのである。
さてここで、霊的な洞察力と信頼を持つ人々が、提供できることがたくさんあるのである。彼らが、祈りを使ってお金を「儲ける」方法を知っているというのではない。幸せと安定を、人々は一般に誤ってお金に結び付けているが、彼らは、真に善なるものすべての源泉は神であることを知ることを学んで初めて、それを永続的に体験できることを、認識し、ある程度ながら証明しているということである。キリスト教科学は、善は霊的基盤に立つと説明している。善とは、景気の良いときには我々は所有するが、不況になると失ってしまうというようなものではないのである。
善意とは、神の子らのうちに、そして神の子らのために、神が維持している存在の特質であり、そこに私もあなたも含まれている。善意は、神と同じように信頼することができる、なぜなら神は、不変の善だからである。祈りは、私たちが欲しているものを、神に請うことではない。むしろ、祈りは、神性の善が常に現存することを、信じるようになり、信頼するようになり、そしてまた理解できるようになることであり、しかも、それが私たちの生活のなかで法則として働いていることまで、認識することである。
聖書には、神がいかに人の必要を満たしたかという記述がたくさんある。明らかに資力の無い人々が、債権者への支払いをすることができたり、税金を魚の口の中に見つけたり、また、一度ならず、数千人の人々が2〜3匹の魚とわずかなパンで、おなかを満たしたりした(しかも、食べ物は、まだたくさん残っていたのである)。これらの記述を読んで、もし、それが不合理で信じがたいと思わないならば、需要と供給の物質的慣例を完全に越えたところで、善の法則、善の力が、確かに働いていたに違いないという結論に、自然に達するであろう。
キリスト教科学は、神が、善の唯一の源であること、つまり、平和と、満足と、豊かに生活を送る能力をもたらし、霊的実質を溢れんばかりに供給する唯一の源であることを、進んで認めるときに、何が起こるかを探究するように促してくれる。そして、神の加護を信頼して生きようと誠実に励む結果、私たちもこれら聖書にあるような経験を、幾分でも体験するようになり、そしてまた、神の法則には不合理なことなど全くないことを知るのである。
もし、私たちがイエスの果たした仕事と教えを科学的見地から眺めるならば、イエスはこの豊かな霊的善の法則をはっきりと感じ理解していたので、今日、人々が家屋や、銀行預金、年金、地位といったことを意識する以上に、この善の法則をはっきり意識していたことの証拠が、示されていることが分かるのである。したがって、イエスが弟子たちに「あなたがたの父なる神は、求めない先から、あなた方に必要なものはご存知なのである」(マタイ6:8)と、断言したというのも、不思議ではない。そして、イエスはこの確言に続いて、「主の祈り」を弟子たちに与えたが、それは神の至上性と絶えざる加護とを、保証するものである。
妻と私は、結婚して2年ほどして、最初の家を購入した。次の3年間、私たちは多くの時間とお金を費やして家を改善し、私たちが心から愛する家に造り上げた。ところが、仕事が変わり、私たちはその家を売って、国の反対側の地に引っ越さなければならなくなった。ところが、不況のため、家の価値が購入したときの20パーセント減になっていることを知り、私たちは愕然とした。実際、2つの不動産会社は、彼らが売値と考える額と、私たちの支払いがまだ終わっていない額との差額分の数千ドルを払わなければ、売り家リストに載せることもできないと言ってきた。私たちには、そんなお金は無かった。私たちは自分たちで「売り家」の看板を家の前に出すことにし、2回ほど家も公開した。しかし、私たちは何よりもまず祈っていた。
私たちは、この家の霊的特質、美しさ、優雅さ、有用性など、私たちがこの家で享受してきたものを、他の人たちも認め、その価値が分かることを、また、これらの特質が私たちの必要を満たしたように、他の人々の必要をも満たすようにと、祈っていた。しかし、間もなく、本当の問題は、私たちは、自分たちの力の及ばない外の力の犠牲者なのだという考えであることに気づいた。
経済がますます悪化しているという情報が、日々、ほとんど毎時、入ってくるなかで、私たちは、意識を麻痺させる恐怖の川の流れに引き込まれているように感じていた。真に問われているのは、私たちが経済という車にひき殺されようとしているという考えに委ねて行くのか、それとも、私たちに向けられている神の豊かな愛を基盤にして、考え、生きるという決意の下に前進してゆくのか、ということであった。
キリスト教科学の賛美歌224番を、私は1日24時間、決して離れない友としていた。何の好転もなく時間が過ぎ行くなかで、恐怖や重圧を感じたときに、どこにいても、いつでも、時には、声に出してこの賛美歌を歌い、そのメッセージの中に心的に避難していた。賛美歌は、次のように始まる:
おお主よ、あなたにありて、私は喜ぶ、
あなたの加護に、私は頼む;
いかなる困難に出会おうとも、あなたの下に、私は逃げ込む、
私の最良の、常なる友の下に。
(Christian Science Hymnal #224, John Ryland)
賛美歌の後半では、たとえ善をどこに見いだしても、神がすべての善の源であると告げている。「物質の泉、みな涸るるとも、あなたのみ栄えは変わらじ」。また、「私に天国を約束する神は、すべてをここに備えたもう」などの歌詞が、これらの日々、私を慰め、勇気づけてくれた。
しばしば、私たちは、2者が勝利を競う競技大会に参加しているように感じていた:それは、不確実なことに対する恐れや、財源の不足が勝利するか、それとも、神がその慈しみをもって私たちを支えている、神の能力に対する妻と私の確信が勝利するかを、競うものであった。私たちは、考えと信頼の重心を、神の善意の側に置くように辛抱強く努力し、パニック的感覚には一切影響されないように、それを拒絶し続けた。私たちの実質は神から与えられるのであり、私たちが神から引き離されることがないのと同様に、私たちが必要とするものから、切り離されることはないことを知っていた。
新しい引越し先に移らねばならない2〜3日前になったが、家を買いたいという申し出は一つもなく、私たちは「売り家」の看板を降ろして、家を貸すことに決めた。そして、まさに賃貸契約書に署名するというその日に、今でも、もし自分がその場に居合わせていなければ、とても信じられないように思うのだが、玄関のベルが鳴ったのである。ドアを開けると、顔見知りではない女性が立っていて、名前を名乗ると、「あなたの家を買いたいのです」と言った。2〜3日前に「売り家」の看板を取り外していたが、この女性は家を探していて、この界隈がとても気に入ったということだった。同じ通りに住む家族が、私たちの家が売りに出されていたことを彼女に話したとのことだった。記録破りの短時日で契約は交わされ、皆の必要が豊かに満たされた。
私たちは非常に感謝した、ただしそれは、「銃弾を逃れた」と感じたからではなく、神の加護の尽きざる源泉の豊かさを教えられたことを感じたからであった。この体験は、大いなる霊的決意を含むものだった、つまり、自分たちにはどうにもならないという無力感を拒否し、神の善の法則の働きを確信し、断固として受け入れるように、祈りで思考を鍛錬することが含まれていた。つまり、私たちの祈りは、子どもが、子馬が欲しいとせがむように、事態を変えて欲しいと神に懇願し続けるものではなかった。むしろ、私たちは、霊的実在の証拠を受け入れ、信頼することを、修得していたのである。
私は、メリー・ベーカー・エディが「祈り」について説明する次の言葉を、多少とも理解できたように思う:「祈りとは神が私たちを愛するその愛を活かすことです。祈りは、善であり、善を行なう願いを私たちの中に呼びさまします。それは神、彼の善と力について、新たな科学的発見をします。私たちがすでに持っているもの、私たちがすでに在る状態を、これまでに見ることができたよりもっと明瞭に示し、まず第一に神が何であるかを教えます」(No and Yes,『否定と肯定』、p.39)。
生活の霊的基盤が、自分の富が誰にも統治できない市場の力に振り回されるのを見ていなければならないという無力感に、取って代わるのである。それは、完全に神性の支配下にある善意と実質の霊的源泉に確信を持つことにある。この源泉には、どんな市場の力も及ばない。
今や、感謝と静かな善への信頼に、投資する時である。今や、正直、倫理、隣人への愛の価値を、尊ぶ時である。そして、私たちは、これらの特質は、単なる人間の楽天主義ではなく、神を理解することによって得るものであるゆえ、それは、今日、世界経済に非常に必要とされている道徳的、恒久的な支柱を、与えてくれることを確信していることができるのである。
スコット・プレラー氏は、キリスト教科学の教師であり、実践士であり、またキリスト教科学出版協会の評議員である。米国、マサチューセッツ州、アンドーバー在住。