神の国には、見知らぬ人も、外国人も、不安なよそ者もいない。ここでは、誰もが、神の国、すなわち、すべてを含む霊的領域の市民として、永久に安心してくつろげるのである。
メリー・ベーカー・エディは、この真理について、『科学と健康—付聖書の鍵』の中で、次のような美しい言葉で書いている:「地上の巡礼者よ、あなたの住家は天国である。見知らぬ人よ、[よそ者よ]、あなたは神の客である」(p.254)。
「神の客」となるということは、いつでも喜び迎えてくれる愛、すなわち神に、抱かれていること、心、すなわち知性の、尽きざる資源に預かること、生命の豊かな自発性を吸い込むこと、そしてまた、霊を段階を経ずに知る喜びであることを、わたしは知った。それはまた、魂の完全さを、真理の誤らぬ確実性を、認めることである。それは、不変の、神性の原理の主権、支配、法律に、意識的に従うことである。
「神の客」となることは、考えの中で、神と一つになること、すなわち、人が神の反映として、今、自分の創り主と一つであることを意識し、それを行動で表すことである。キリスト・イエスは、自分がかつて告げた言葉、「わたしと父とは一つである」(ヨハネ 10:30)が、真実であることを、終始一貫、地上での仕事を通して自ら実践した。
人が神と一つであることは、逆らえない事実であって、それは、見知らぬ人とか外国人という考えを、間違いなく消去することを、誰にでも可能にしてくれる。あたかも大小さまざまな障壁だらけのように見える、この人間社会において、人が神と一つであるという科学的事実は、神性の法則として働き、国家の対立をほどき、 旅行とか国籍などに関する煩雑な条例などを、ほぐすことができるし、実際にほぐしているのである。
日本で生まれ、育ったわたしは、 アメリカの大学で学ぶことを熱望していた。しかし、この夢は、第2次世界大戦とその戦後状況のため、全く実現性がないように思われた。そこで、キリスト教科学の実践士に祈りによる助けを求めたところ、実践士はわたしに、真実の自己に目覚めるように忠告してくれた。彼女は、真実の自己は、永久に父なる神と共にあり、戦争、国籍、その他どんな制約にも縛られないことを述べ、私がこの真理を十分に理解できるように話してくれた。そして、わたしのために祈ってくれたのである.
この忠告に従って、わたしは神と一つであることを自分に言い聞かせ、これが、今、現在、唯一の事実であることを認めていると、もろもろの心配が消え去っていった。そして、アメリカ留学も実現し 自分があこがれていたプリンシピア大学で豊かな学生生活を経験することができた。卒業が近づき、ハーバード大学から寛大な奨学金を受けることになったが、母校プリンシピアから英文学教師としてしばらく大学に残らないかという誘いを受けた。ハーバードへ行くことについては、 法的に何の問題も無かったが、母校で就職することについては、外国人学生という身分から、必然的に複雑な手続きが必要とされ、それらが解決するという保証は何も無かった。
しかし、またとない機会なので、わたしは後者の道を選び、あまたの法的障壁と取り組み始めた。何ヶ月かが過ぎたが、障壁は依然として残っていた。後ろを振り返って、馬鹿な選択をしてしまったものだと、後悔する誘惑に強くかられた。
その時、わたしはエディ夫人の「人」についての描写を思い出した。次がその一部である:「…神から離れた心を持たないもの;神格から派生しない性質は、一つも持たないもの;自らの生命・知性・創造力は持たないが、造り主に属するものすべてを、霊的に反映するもの」(『科学と健康』 p. 475)。わたしは、この描写は、わたしの真の自己に該当し、そしてまた、故国を含むすべての国のすべての市民に該当することに、気がついた。
また、神と一つであることは、個性をあいまいにすることではなく、人が神格に吸収されてしまうことでもないことに気がついた。むしろそれは、霊の無限の個性と多様性を反映することを意味していた。また、人が神と一つであるという真実は、ある時は実行され、他の時には無視されるというものではなかった。
わたしは、周りの人たちは、神から離れた限られた心を持つものであると認めてしまったら、わたし自身が無限の知性を享受するなどということを、期待することはできないことが分かった。 神の法則が、わたし自身のために働くためには、わたしの周りにいる人たち誰にでも、また、自分が交渉する役人すべてにも、同じように働いていることを認めなければならないのであった。そればかりではなく、ワシントン、東京、モスクワ、その他世界のあらゆる国の立法者、政府指導者にも働くことを、理解しなければならなかった。要するに、わたしの隣人たちから、わたしだけを切り離して、父と一つになることを達成するなどということは、望めないことだった。
短気になり、イライラする気持ちは、自分の考えを、神と一つである、神と和合するという、霊的事実に委ねているうちに、消えていった。しかしながら、状況は変わらず、気落ちしそうだった。結局、効果のない手紙のやり取りを何ヶ月も繰り返したのち、出入国手続きをする政府機関の地方事務所まで、一晩泊まりで出かけて行き、担当の政府役人と直接会うことにした。
その途上、わたしは、神と一つであることは、同胞を含むすべての人間に該当することを、それまでになくはっきりと理解することができた。神の業はすでになされていて、わたしに課せられた仕事は、この事実を証明すること、それだけであった。会見は、形式張らず、友好的なものだったが、その役人には、実際に助けてくれることは、何もできそうにないようすだった。ついに、役人は、午後1時まで休憩しようと言った。
わたしは、それまでの時間を近くのキリスト教科学読書室で過ごすことにした。エディ夫人の著書を読み、自分も役人もみな誰もが、神、一つの心の、個々の表現であって、神、一つの心、以外の何ものにも支配され得ないという真実をあらためて確信し、喜びさえ感じるようになっていた。約束どおり、一時に出入国事務所に戻ってみると、役人は、わたしが求めていた事柄すべてを認可する、公式の手紙を渡してくれた。
この経験を通して、わたしは、人が神と一つであることを実証するには、不断の実践と自律が必要であることを学んだ。また、それは、ある瞬間は確信し、次の瞬間は棚上げするようなものであってはならないこと;そしてまた、神の子らすべての個性であり、権利である、完全に満足できる自己を照らし出すために、自分が日々大切にしている個人的な信念を、捨て去らなければならないことを悟ったのである.
「子よ、あなたはいつもわたしと一緒にいるし、またわたしのものは全部あなたのものだ」(ルカ15:31)。人が神と一つであることを、終始一貫して認めていると、人間の心のめくら滅法の手探りや、激しく振りまわされる欲望が取り除かれて、神の子としての生来の相続財産である豊かな霊的資源が、それぞれに直ぐに役立つものとなるのである。こうして、孤独なよそ者、家なきさすらい人も、自分は実は、常に「神の客」であることに、目覚めるのである。