カレン・マコイさんは、長年、人材開発の分野で働いてきました。そして、彼女は、ボストンの第一科学者キリスト教会の人材開発部主任を経て、今、読書室活動部の主任を務めていますが、彼女は、これまでたくさんの応募者と面接して、雇用情勢の変遷を見てきているので、編集部のロザリー・ダンバーが、雇用に関する彼女の考えを聞いてみました。
もし、今、失業中の人に話しをされるとしたら、どんな霊的指針を示されますか?
まず、「落胆や恐れに負けないように」、と言うでしょう。次には、失業しているという考えそのものに挑戦するように、と言うでしょう。私たち一人ひとりは、神の理念であり、神の映像と似姿に造られているのです。これが霊的事実なのです。従って、雇用者はいつも、神に似た特質を「採用」しているのです。
このような考え方が、私たちに恐れや落胆を超越させて、建設的な方向に進ませてくれます。何年も前にキリスト教科学の雑誌で読んだ次の言葉が、今なお、私の記憶に残っています:「永遠を通して、神が不足したことなど一度もない、従って、善が不足したことも決してないことを、忘れないように」。
神の特質を現すと言いますと、愛、善意、エネルギーなどを、お考えですか?
そういう特質こそ、雇用者が、求職者について、本当に知りたいことなのです。その人が、知性、創造性、情熱など、これらの肯定的な素晴らしい性質を、現しているだろうか、と。 これらはすべて、神から来るものであって、私たちは神の子として、これらの性質を自然に現しているのです。
自分が現す霊的特質のリストを作ってみるというのは、どうでしょうか、そうすることで、自分は未来の雇用者に提供できる有用なものを、本当に持っているのだということが、実感できますね?
自分の思考を肯定的に保つために、それは素晴らしい方法です。落胆したり、恐れで落ち込んでしまうことがないように、油断なく注意している必要がありますから。
恐れや落胆に、どのように立ち向かったらよいのでしょうか?
激しく恐れを感じるとき、私は、詩篇23篇を使って懸命に祈ります。メリー・ベーカー・エディは『科学と健康』のなかで、この詩篇に霊的解釈を与えています。彼女は「神」や「主」という言葉を、「愛」という言葉に置き換えています。例えば、次のようにです:「〔神性の愛〕はわたしの牧者であって、わたしは乏しいことがない。〔愛〕はわたしを緑の牧場に伏させ、〔愛〕はわたしをいこいのみぎわに伴われる」(p.578)。
この詩篇について考えているとそれだけで、私の恐れを静めてくれました。本当に恐怖を感じるときは、何度も何度もくり返し言わなければなりませんでしたが、それで状況が本当に変るのです! 準備を怠ってもよい、ということでは決してありません。完璧に準備すること、履歴書も完璧に整えること、それは当然のことです。しかし、最も有益なのは、この線に沿って絶えず祈ることです、すると神が道を開いてくださいます。
多くの方が、欽定訳聖書の「マタイによる福音書」や「ルカによる福音書」の中の、次のイエスの言葉をご存知だと思います:「何を食べようか、何を飲もうかと、自分の命のことで思いわずらうな、・・・まず神の国と神の義とを求めなさい、そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう」(マタイ6:25, 33)。従って、私たちが、心を集中すべきは、神の国であって、恐れや落胆ではないのです。
多くの就職カウンセラーは失業している人に、他の選択、また新しい分野に進んでみることを、勧めます。しかし、本当に、今、仕事を必要としている人、追い詰められていると感じている人にとって、そんな余裕があるのでしょうか?
時には、住宅ローンの返済や、食べさせなければならない子供がいるときなど、どんな仕事でもやらなければならないでしょう。しかし、だからといって、祈り続けるのを止めることはないですね。神の思考、神の理念が、到来できるように、道を空けておかなければなりません。時には、経済的にひっ迫しているため、いつもなら自分にとって理想的とは思えないような方策を取らねばならないこともありますが、そんなときでも、神に耳を傾け続けることができます。神は常に私たちに語りかけ、道を示しているのです。しかし、時には、恐怖心が割り込んできて、神性のメッセージを聞く邪魔をするのです。
次のステップに進む準備ができるまで、仮の仕事に就くことも、あるのかもしれませんね?
ありますとも。私自身もそのような経験をしています。私は、ある仕事でトップにいたのですが、退屈になってしまいました。仕事を変える時がきた、と思いました。この次のステップを正しいものにしたいと思い、キリスト教科学の実践士に電話をかけて、一緒に祈って欲しいと頼みました。この過程で、私は、自分にできる限り、示された考えに従順でありたいと思っていましたが、そこで示された考えの一つが、大学院に行くというものでした。そこで私は、GREs [大学院入学学力試験]を受け、大学院に申し込み、必要な手続きをすべて済ませていました。
この間も、私はずっと祈り続けていて、働いていた場所に公示される求人リストも見ていました。私がしたいと考えていた仕事が、リストにありました。そこで、電話をかけると、応募用紙が届き、その中に、なぜその仕事に就きたいのかと尋ねる項目がありました。ところが、金曜日までに提出しなければならず、それが水曜日のことで、水曜日と木曜日の夜にはすでに予定が入っていたのです。考えをまとめるため、あまり時間がありませんでした。
しかし、考えてみると、私が大学院に行きたい理由は、まさにその仕事をしたかったからでした。従って、答えはすでに書き上がっているようなもので、履歴書も最新の経歴まで入れて完備していました。応募者がたくさんいて、厳しい競争になりましたが、面接を受けて、私はその仕事に就くことができました。あの祈りと、神に与えられた素晴らしい考えに導かれて、現在の仕事に就いたのです。それから幾年も経っていますが、あれはすばらしい恵みでした。
これは仮のステップを踏んだ場合の例ですが、祈り続けるなら、最後には、必ず正しい道に導かれるに違いありません。
面接の段階に至ったら、どんなことを考えるべきでしょうか?
面接を受けるということは、おそらく履歴書によって、あなたにはその職に就く資格があるということが、すでに示されているためでしょうが、雇用者はあなたがその仕事に本当に適しているかどうか、それが知りたいのです。それは、どういうことでしょうか? それは、あなたが自分をどのように提示するか、ということです。先ほど話していた神に似た特質、つまり、知性、熱意、仕事への関心などですが、これらのものが面接のときに現れてくるのです、そして雇用者はそれを見極めたいと思っているのです。あのリスト作りに戻りましょう。あなたがこの時にすべきことは、あのリストにある神に似た性質が、本当に自分のものであると、祈り、確信していることです。それができていれば、あなたの才能が面接の中で現れてくるでしょう。
では面接の間、雇用者が仕事について話すことに耳を澄ましながら、「はい、確かに、私は順応性を持ち、直感力も持っている…」と考えているべきなのでしょうか?
まさにそのとき、あなたは、そうした特質を自分のものとして確信していることができます。候補者が自信を持ち、自分がしていることに確信を持っているとき、その人は魅力的に見えるのです、そして非常に人を惹き付けるのです。傲慢なのではなくて、ただ静かに自分がしていることに自信を持っていることです。神に守られていることを理解していると、自信を持つことは難しくありません。
それでは、その人の職歴が聖書の放蕩息子のようであった場合、新しいページをめくる、つまり出直すことができるのでしょうか?
放蕩息子の物語は、相続する財産を早く欲しがり、無謀な生活でそれを使い果たしてしまうわけですが、聖書が言うように、彼は自分に立ち返るのです(ルカ15:11-32参照)。ある人が、もしそうした立場にあって、本当に出直そうとの決心をしているなら、その謙虚さが雇用者に伝わり、おそらく、もう一度、彼に機会を与えたいと思うのではないでしょうか。低いレベルから出発しなければならないかもしれませんが、謙虚であり続け、神に耳を傾け、私たちに常に示されている神のメッセージに心を開いているなら、どんどん前進してゆくでしょう。
それでは、過去について苦い思いが残っている人の場合はどうでしょうか。その人は解雇されているのかもしれず、それが不当な解雇だったと感じているかもしれません。それでも、その人は仕事に就く必要があり、正当な資格を持ち、組織にとって有益な人材になると思われることがありますね。
実は、そういうことが本当によくあるのです、そして、思っている以上に多いのですが、しかし、会社が社員を解雇するとき、一般に会社の経済的な理由で解雇するのであって、その人個人のことが理由ではないのです。そこで、そういったしがらみを乗り越えることがとても大切です、なぜなら、そのような苦い思いや、そこからくる不満は、私たちの進歩を止めてしまうからです。
メリー・ベーカー・エディは、これに関連したことを、次のように書いています:「自分についての無知、我意、独善、情欲、貪欲、うらやみ、復讐心などは、優美さ、平穏、進歩にとって有害です。このような性癖には断固として対峙し、克服しなければなりません、さもないと、それらは、すべての幸せを根こそぎにしてしまうでしょう」。そして、苦い思いも、このリストに含まれると思います。彼女は次のように続けています:「勇気を出しなさい;自分との戦いは、素晴らしいものです。それは、その人に十分な仕事をもたらすのです、そして、神性原理があなたと共に働き、従順な心は、たゆまぬ努力に、恒久的勝利の冠をもたらします(Miscellaneous Writings 1883-1896、p.118)」。
素晴らしい考えだと思いませんか? 自分の問題に対峙することが、十分な仕事になるのですから。この点を支配できたら、面接は大成功です!
知性,愛、善意、正直などという特質は、採用され得るが、苦い思いや怒りは、採用され得ない、と言えるでしょうね。そこで、苦い思い出や、怒りを握りしめていたら、ある意味で、自分で自分を採用できないものにしてしまうことになりませんか?
もし、そのような不満が意識に残っているとすれば、それを携えているため、それが面接のなかに現れてきます。当然、それは、「優美さ、平穏、進歩にとって有害」です! そのような否定的な影響を消し去ることが、今すぐ、あなたにたくさんの仕事を与えてくれることでしょう。
苦い思い出について、もう一つ注目すべき点があります。「主の祈り」の中に「わたしたちに負債ある者をわたしたちが許すように、わたしたちの負債を許して下さい」、という一節があります。Amplified Bible は、この言明について、違った見方をしています:「わたしたちの負債を許して下さい、わたしたちもまた、すでに負債者を許している(負債を手放し、免除し、帳消しにしている、そして負債者に対する怒りを捨て去っている)(マタイ、6:12)のです。つまり、怒りを捨てることの大切さが、「主の祈り」の中にちゃんと入っているのです。
聖書の中で特に役に立つと思われるものが、他にも何かありますか?
実は、マラキ書の中に素晴らしい一節があります:「十分の一の捧げ物をすべて倉に運び、わたしの家に食物があるようにせよ。これによってわたしを試してみよと、万軍の主は言われる。必ず、わたしはあなたたちのために天の窓を開き、祝福を限りなく注ぐであろう」(3:10、新共同訳聖書より)。
善は、直ぐそこにあるのです。神が存在しなかった時はなく、従って、善が存在しなかった時もなかったのです。神の恵みは、あなたの想像をはるかに超えて、ますます大きく、善いものとなるでしょう。