わたしの宮に食物のあるように、十分の一全部をわたしの倉に携えてきなさい。これをもってわたしを試み、わたしが天の窓を開いて、あふるる恵みをあなたがたに注ぐか否かを見なさいと、万軍の主は言われる。—マラキ 3:10
今日、多くの人々が、アメリカでも、また他の国々においても、厳しい経済状況がもたらす不安や混乱の中で、どうすれば安全を見いだすことができるか、答えを探し求めている。不況にあえぐ一般市民が、ニュースの顔となっている。この苦難が招くストレスが、ますます多くの人々の共通の問題となっている、つまり、失業、家を失ったこと、また家計がまかなえなくなったことからくるストレス、そして、良き日々は過去のものとなったという落胆からくるストレスである。
自分個人のことであっても、世界全体のことであっても、恐れ、疑惑、心配をもたらすようなことが連発すると、意気消沈し、心が麻痺してしまいそうな恐怖感に襲われることがある。しかし、私たちは、そのつど、どのように考え、また、何を考えるべきか、自分で決めることができるのである。聖書は、人々が、幾世紀にもわたって、克服不可能と思われるような困難に、しばしば直面してきたことを記録している。しかし、彼らは、そうした困難にもかかわらず、生来自分のものである神の理解に頼るという選択が、問題解決の鍵であることを発見し、あるいは再発見して、困難を克服してきた。
自分は不利な立場にあるという考えを、祈りによって調整すると、確かな前進に導かれる。そして神の手が、自分の人生を導いていることを知る最も効果的な方法は、「頂上」からスタートする祈りによって、自分の考えをより高度な見地に高めることであることを、私は学んできた。この方法は、トップで勝手に決めてしまう経済機構とは大いに異なり、霊的通貨を用いるもので、神の至上性と、神の確かな加護という確固たる事実に依拠するものである。自分自身の考えで動くよりも、より偉大なものの上に信頼を築いてゆくと、安定と安全は、金銭の収入の問題などよりもはるかに大きなものであることが分かってくる。
数年前に、主人と私は、家が洪水に見舞われ、経済的に非常に不安な状況におかれたことがあった。この洪水は、地下室に水たまりができたという程度のものではなかった。私たちは家財の大半を失ってしまった。当時、私たちはこの家を売りに出していたのだが、私たち自身は、遠く離れた地に住んでいて、家が売れた時点で、家財を移そうと考えていた。ある冬の夜おそく、電話がかかってきて、その家の半分が2メートルの水につかっているとの知らせを受けた。私は、暗闇の中に座りこみ、頭をかかえ、パニックに陥らないように、冷静になるようにと、懸命に努力した。私たちは、その家のある所から非常に遠く離れたところにいて、どうにもならないという絶望感に襲われそうだった。
私たちは、それまで洪水にあったことはなかったが、家族は厳しい人生経験をしていて、パニックや恐怖心は、問題解決の助けにならないこと、しかし、祈りが助けてくれることを知っていた。
そんなとき、私たちは次のように自問した:この問題が解決した時に、私たちは、何を得ているだろうか? 私たちがより強くなり、信仰を更に深め、神の加護をより確信することができるために、私たちは、この経験から何を得られるのだろうか? これと同じ問が、今日、家について、仕事について、あるいはまた生活費などについて祈っている人々にも、当てはまることであろう。そして私は、感謝が問題解決の鍵になり得ることを、見いだしている。
私はその暗闇の中で、まもなく、こう言っている自分に気づいた:「父なる神よ、ありがとうございます」。洪水に感謝するのではない、またそれに伴って起こった経済的な衝撃に感謝するのでもない! そのとき、感謝できる他の無数の事柄について、感謝しているのである。誰も怪我を負っていないこと、消防士と緊急隊員は、できる限りの物を持ち出してくれたこと、近所の人々が安全であったこと、そしてしかも、近所のあるが、私たちにとって何ものにも代え難い家族の写真を、全部持ち出してくれたことなどである。
洪水による影響は、すぐには消えなかった。家の内装をすべて新しくする必要があった。それからの一年間、私たちは、多くの支出をどのように支払うかについて苦心し、また家はすぐには売れないことが分かっていた(つまり、2つの借入金の返済を続けなければならない)にもかかわらず、夫と私は、神に対する「感謝のリスト」づくりに励んでいた。私たちは祈りを、一番高い地点で始め、そこに留まっていようと、決心していた。それは、まず、神を讃えることから始め、神の創造について霊的に正しいことで考えを固め、心配したり、あれこれと考えあぐねたりしないということだった。どのように前進すべきか、神に耳を傾けながら、災害で受けた損傷の対処に取りかかった。
私たちは、安全の保証とは、物質の状況に頼るのではなく、霊の実質に基づくものであると、感じるようになっていた。これは、非常に重要なことだった、なぜなら、私たちはこの修復作業を、遠隔の地、国の反対側の地に住みながら、進めなければならならず、細部にわたる複雑な要素が無数に絡んでいて、不安に襲われそうになることが多かったからである。それで私たちは、修復工事と修理の契約に関わる人々が、みな正直で、健康で、安全であり、その一人一人が、神、唯一の神性の心、の統治の下にあることを、祈りの中で確認していた。
最初の洪水から、最終的に家が売れるまでに、更に2回の洪水に見舞われた。言うまでもなく、私たちは、「もうごめんだ!」と思いたくなる誘惑にかられた。この時期に私が学んだことは、状況がどれほど深刻に思われても、私たちの生きてきた絶対的な霊的事実は、まったく変わっていないということだった。私は、忍耐について学んでいた、いろいろ整理していて、自分には思っていた以上に、忍耐力があることを知った。一瞬、一瞬、善を信頼し、神の側から離れないようにしていると、恐怖に陥って心配のため余分のエネルギーを費やすことから免れることができた。
支払い金額が明らかになったとき、私は祈った。その時の祈りを、今でもよく覚えている。私たちは神を現すものとして、正しいことを行ないたいという「願い」だけではなく、正しいことを行なう「能力」も備えていることを、祈り確認したのである。そして、家が売れるまで2つの借入金の返済をすることは、正しいことなのだった。家の問題がきれいに整理されれば、その家は、買う人にとって恵みとなるであろうと、私は考えた。霊的な法則を理解すると、つまり、私たちは正しいことを行なう能力を持っている、という霊的法則を理解すると、神は私たちを加護しているということが再確認された。私たちは、神から切り離されていることはないのである。そして一歩一歩、調整し慎重に計画を進め、ついに家が売れるまで、2つの借入金の返済を続けることができた。この神の加護の証明は、霊的理解とは単なる理論ではなく、実際に具体的な行為に導くものであることを理解させてくれた。
それから6年を経た今日、私が一番はっきり記憶していることは、経済的緊迫状態が続く中で、感謝し、神の羊飼いのような権限に守られ導かれていることを、感じつづけることができたことである。困難を乗り越えて対岸にたどりついた今、私たちは、この道程で受けた、平和、加護、導き、保護、供給、霊感に感謝している。
今日の世界的不況は、規模において前例を見ないものであろう。しかし、神の供給にもっと頼ることを学ぶ経験は、その一つ一つが、人の生き方を根本的に変えるのである。善を信頼することは、神の子供たちにとって自然である、そして、それは、金融危機についてメディアが私たちに信じさせようとするものの正反対である。人間の目に映る状況は、恐怖、疑い、心配、そして非難に満ちており、私たちに、自分は被害者だと思わせ、その結果、壊れやすいものだという考えを受け入れてさせてしまう。「心配と疑いは、人を疲れ果てさせる」ことを、私は、しばしば、思い出す。しかし、その逆に、解決できるのだと信じて、癒しを期待していることができる。祈りは、神性の力と現存に対する信頼を増す。霊的感覚によって得る神への信頼が、心配に取って代わる。
この霊的感覚は、漠然としたものでも、達成困難なものでもない。それは、私もあなたも、今、ここで活用することができるものである。霊的感覚とは、神性の次元で考え、祈り、行動することである。神は、私たち一人一人を、神の反映として、統治していることを知り、信頼すると、力を得る。このような思考状態から、明晰な思考による考えが生まれる。イエスの全生涯は、霊的感覚を具現したものであった。彼にとって、物事の優先順位は明確であった。彼の神との関係が、彼の考えと行動の一つ一つを支えていた。彼は、「わたしは、自分からは何事もすることができない… それは、わたし自身の考えでするのではなく、わたしをつかわされたかたの、み旨を求めているからである」(ヨハネ 5:30)と宣言した。彼はくり返し、祈りをもって、神から始めるようにと、弟子たちに言った。そして、神を理解し、神のすべて善なる統治を理解することが、安全をもたらすと言った:「まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう」(マタイ 6:33)。
自分の考えが、必要なもの、心配などに、こびり付いてしまい、なかなか前に進まないようなときには、私はよく次のように自問する:「私は、この癒すキリストの科学の生徒なのだろうか? それとも、このような問題の生徒なのだろうか? これは、祈りの出発点を確認することの必要を、私に思い起こさせてくれる。私は、イエスを模範として、神と、神の善の法則について、もっと学んでいるだろうか? それとも、砂地に引きずり込まれて動きがとれなくなるように、問題のなかに埋もれてしまっているのだろうか?
解決策は、祈りを、霊感に動かされて、霊的観点から始めるときに、つまり、神がすべての力を持つという確信が生まれたときに、現れる。思考が、より明確になり、善への期待が高まり、もっと正確に考え、推論できるようになる。コンビニに行ったとき、あるいは台所のテーブルに座って経費について思案するとき、そんなときこそ、恐怖を脇に追いやり、神の指示に耳を傾けるときである。心配が非常に強く感じられるとき、正にその場に、神の知恵と導きがあるのである。
人々は自分の過失によらない理由で、経済的損失をこうむることがしばしばある。他人の行為によって損害を受けたという苦悩と無力感が心に広がる。その好例は、故意に顧客をだまし、彼らの蓄財を奪ったビジネスの犠牲となった人々であろう。しかし、そのような強欲と不正でさえも、祈りによって対処できるのである。キリスト教科学の発見者であり、本誌の創始者である、メリー・ベーカー・エディの次の言葉は、この思考を明解にする:「神の側にいれば一人でも過半数である」(『否定と肯定』、p.45-46)。私たち自身が神と一体であることを、静かに、謙虚に確認すると、私たちも、また他の人々も安全であること、つまり、神性の愛の統治の外にあることはないので、本当に犠牲となることはないことを知る。今、この瞬間、あなたも私も、神の表現そのものであり、神の愛する子なのである。誰でも、この理念を受け入れて、生き、そこから出発することができる。祈りは、神の統治が、究極的に、唯一の真の統治であり、各々が、永遠に神の加護、神の指導のもとにあるという理解に導く。
社会は、善の力に対する確信を取り戻す必要がある。それを通じて、グローバルな経済市場も、個々の家族も、息を吹きかえし、そればかりではなく、繁栄するのである。神の現存と力が、自分にとって何よりも重要であることを意識し始めると、最悪の経済ニュースのただ中にあっても、善に対する信頼が高まる。
祈りが、神の統治を謙虚に認めるとき、この祈りが、日々私たちを悩ます陰うつな統計や暗い予測よりも、力強い事実となってくる。もっとも単純な祈りが、収入を得る新しい道を開き、他人に奉仕し、祝福することができるようにする。祈りが、応えられないことはない。善を、忍耐強く信頼するとき、祈りの結果を見ることは、極めて自然である。私たちが計画できなかったような方法で、善が回復される、そして、善が奪い去られた事が無かったことを、垣い間見るのである。
これは、悲しい結末の時ではなく、新しい出発の時となり得るのである。