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なにが暴力を鎮めるのか、自国においても、他国においても?

キリスト教科学さきがけ』2010年09月 1日号より

Christian Science Sentinel, 2008 年9月29日号より転載


異なる分野の学者たちが集まって、国際テロリズムの研究について話し合っていました。私自身は、自分の地元の街の状況、そこにはびこる地域特有のテロについても、考えずにはいられませんでした。そこで、私は、この研究を、世界規模で広がるテロ問題の研究助成金に応募するために開かれた教授会の席上で、都市部の地域社会の研究まで含めるものにして、アメリカの犯罪組織と国際テロが関連している可能性について、探求することを提案しました。

同僚たちが、国際テロに焦点を絞るべきだと決断したことに対して、理解できないわけではありませんでした、しかし、いずれの形態のテロも、根源は同じであり、その対策も共通するというのが、私の考えでした。

何年にもわたって私が重ねてきた研究、つまり街の現場の目線による研究と、私の霊的直感は、テロも犯罪も、その動機は、怒り、貧困、復讐、憎悪によって育てられた不満という同じ根から、生じていることが多いことを示しています。それでも、ある人々は、他国で発生したテロの方が、より多くの脅威をもたらすと信じています。

つい最近、私がデトロイトで会ったある老人のような考えを持つ人たちと話していると、違ったものの見方が得られます。会話が外交政策に移ると、その老人は、対外援助は、アメリカ人にとってひどく不公正だ。今、国がこんなに厳しい失業問題、犯罪の増加、それに、自分たちの地元でもこんなひどい不況の最中にあるじゃないか、と不満を述べました。「なぜ、イラクに金を送るんでしょう? この地域にだって、テロリストがいることがお分かりになりませんか?」と老人は訴えました。

彼のことばは、怒りと憤慨に満ちていました。そして、そのことばは、我々の研究チームが「第三都市」と呼んでいる都心部の孤立した地域に住む人々と、共通の思いを宿していました。この「第三都市」の世界は、無関心、不当な扱い、酷使の産物であるという点で、いわゆる第三世界の国々と非常に似ているのです。

対外支援が賢明であることは、私も認めますし、国際テロ研究についてここで提案されたガイドラインの基準に従うという論理も分かります。しかし、この老人の不満も理解できるのです、そして、彼が助けを求める叫びにも、耳を傾けるべきだと思うのです。市民の立場から見た場合、都市部における暴力行為の増加傾向に対する懸念は、それがコソボの街で起ころうと、シカゴの街で起ころうと、本当に違いがあるのでしょうか。その加害者らを、私たちが犯罪者と呼ぶか、テロリストと呼ぶか、それだけの違いではないのでしょうか?

本当の犯罪者は、社会が、善悪双方を含む、多くの相争う心で作られているという信念です。そして、私たちには、悪いやつを食い止める力がない、という信念です。そんな信念に油を注ぐのが恐怖心です。つまり、毎日,弾丸のように飛び込んでくるマスコミの報道や、特にビデオゲームやウェブサイト、映画などの中に出てくる、私がいわゆる人工の暴力文化と呼ぶものを、もてはやす風潮が生み出す恐怖心です。しかし、イエスの模範が示すように、私たちには、暴力に立ち向かって、疑い、絶望、恐怖心などを持つ余地を残さないこと、そんな余地を許さないことが、できるのです。唯一の神性のに則した祈りは、イエスと同じように、私たちも恐れずにいることを可能にしてくれます、つまり、彼がしたように、暴力は究極的に無であることを見極め、そして歪んだ思考の罠にかかった人たちの人生を、変えることができるのです。

私は、人々の生活が一新するのを見てきました。残忍な行為の誤った魅力に引きつけられるようなことは、もっと強力な素晴らしい男性や女性の模範、キリストの模範を、目の当たりにして、それに触れるとき、不可能となるのです。この同じ模範が、犯罪やテロの恐怖の罠に陥っている人々を、助けることができます。

キリスト教科学実践士である親しい友人は、私が、残忍な行為と恐怖という2重の難関に立ち向かう危機的状況にあるとき、多くの祈りと道徳的な支えで助けてくれました。また、より平穏な時には、熟考する理念を示して、助けてくれました。

人間の思考は、とかく、すぐに脅えてしまうのです。日々、アメリカ国内や他の国の街から送られてくる映像や報道に、恐れを感じるのです。時には、世の終わりのような思いに襲われることもあります。この友人は、暴力事件や恐怖は根本において、と、の創造したものについての偽りであるということを、理解させてくれました。これらの偽りは、私たちを失望させることによって、暴力を解決するには、復讐か、さらなる暴力しかないと、信じさせるのです。しかし、答えは、「目には目を」なのでしょうか?

絶望は、暴力の潮流と結びついています。私は、聖書の中でイエスや他の人たちが示した模範のなかに、絶望に対する解毒剤を見いだしています。彼らは、霊的力の場に立って、また神性のの力の場に立って、和解をもたらしました。霊的に応えるという彼らの模範に従うと、無秩序、野蛮な行為、あるいは、悪の脅威といった映像に、自分の考えが影響されないようにすることができます。

多くの人は、都心部で起こっている問題や、田舎の一部の貧困は、自分から遠くかけ離れたことのように感じています。しかし、私が出席した公安関連のセミナーの講師が言っていたように「もし、一人の市民が安全でなければ、誰も安全ではない」ということです。先にも述べたように、従来の物質的な思考は、暴力行為への唯一の真の解決法は、力を強化して、「敵」を全滅させることだと主張します。

最近、私自身、そのような誘惑に立ち向かう経験をしました。デトロイトで車を壊されたとき、そのように反応する誘惑にかられました。相手を許すことができず、恐怖と怒りに満ちた精神状態に陥り、法に反する者は罰して欲しいと思いました。そういう人たちが、の子であるはずがない、と思いました。しかし、突然、私の考えが変わったのです。もっと崇高な直感が、取って代わったのです。そのとき、私のすべきことは、私の車を壊した若者たちについて、彼らの霊的真理を知ることでした。イエスがユダに裏切られ、大きな試練に直面したとき、イエスの弟子たちの何人かは、恐怖と混乱に見舞われました。ペテロは、怒りのあまり、群衆の一人を襲い、その人の耳を切り落としてしまいました(ルカ 22:47~51参照)。

悪と野蛮な行為に対して、イエスが示した解決策は、イエスが次にとった行動に明白に示されています。イエスは、その人の耳を回復させたのです。自己防衛のために暴力を振るうことを排し、彼は、自分の真の兄弟を心のなかに抱きつづけていたのです。イエスは、その場で許し、霊的に静まった考えは、解決策と、必要とされる教えを、もたらすことを示しました。イエスは、群衆の中にいた男たちを、テロリストや犯罪者としては、見ませんでした。イエスは、十字架上にあってさえ、彼に悪を働いた人々を、許すことができたのです。

私は、これこそ、あの日、私が、デトロイトで「悪者」たちにしなければならないことであることを、悟りました。最初、私は、ペテロと同様、怒りでいっぱいでした、私の場合は、若者たちが私の車に働いた悪事と、平穏な日曜の朝を台無しにしたことへの怒りでした。私は復讐したい気持ちになっていました。そのとき、路地に、若者たちが集まっていましたが、彼らは、民兵隊を装う、文字通り法の外で生きる無法者たちでした。彼らは、誰があの破壊行為を行なったのか知っていて、違反者たちを捕えて「取り締まる」、そして、罰を与えるのだと、言いました。しかし、が、先に、私を捕えたのです。の静める考えが働いて、瞬間的に、私の考えを変えたのです。

私は、若者たちに、私たちは、愛のみによって「取り締まる」こと、愛なしには、善も、癒しも、ここから生まれてこないことを告げました。おそらくあのとき、この若者たちは、何も理解していなかったでしょうが、私は、たまたま、彼らが、今では違った道、暴力から離れる道を、歩んでいることを知っています。

私は、さまざまな地域社会で仕事をしていますが、バランス感覚を保ち、そこで本当に何が起こっているのかを見極めるためには、霊的理解に頼ることが必然なのです。私は、「第三都市」に存在する決定的瞬間というものを十分に承知しています。第三都市は、人々が隠れて生きるところであり、お金を使わずに、物やサービスを物々交換して暮らしています。そしてまた、その暗黒の社会での活動が犯罪であることも、広く知られています。第三都市は、裏町を根城とするもので、周りの社会は、多くの意味で、彼らにとって遠く離れた「象牙の塔」のようなものなのです。

このもう一つの世界は、政策決定者たちを含み、彼らは、労働市場、景気の先行き、福祉の見通しなどを理解している人々です。彼らの先兵たちは、町の現場にいる社会福祉士であったり、宗教の関連団体のボランティア、また地元の役場職員たちであったりするかもしれません。彼らは、現場の連絡係であり、新しい連携を生み出す橋渡し役なのです。敵は、つまり問題は、地域において、犯罪行為(本質的にはテロ)を、普通のことにしてしまうことです、これらの地域社会は、すでに、横暴な指導者やギャングに乗っ取られているからです。これらの集団は、社会の不公正(貧困や失業という形で現れているもの)を食い物にして、法の働かないところで増殖し、暴力(テロ)を道具にして支配するのです。

私は、このような地域のために行なっている仕事においても、また、私の祈りにおいても、イエスが、人間的に裏切られたときに見せたあの霊的対応を、理解し、適用する必要があると思っています。イエスには、人々の残忍な、あるいは反発する、誤った姿を超えて,人を見据える能力があり、それゆえに、イエスは癒し手となることができました。暴力は、の創造したものとは無縁なものとして、常に譴責することのみが、暴力を減少させることができるのです。聖霊は、このような荒れ地から、私たちを導き出してくれます。それは、私たちの理解を深めて、私たちが増大する暴力に、立ち向かえるようにしてくれます。

私はまた、聖書の中にある別の話で、暴力的本能が、霊的権威によって克服されたということに助けられています。例えば、エリシャが、重い皮膚病に苦しむシリアの総督に、ある特定の川で身を洗うようにと言った話があります(列王下 5:1~14 参照)。武官は、初め、怒りでいっぱいでしたが、エリシャの言葉に従い、癒されました。が私たちにある事をするようにと導いたときに、それに耳を傾け、従うと、癒しが起こるのです。

その挑戦が、自国の、または他の国のテロでも、地元の犯罪の潮流でも、遠方から伝わる暴力拡大の脅威でも、その挑戦に立ち上がれ、という予言者の権威ある指示を私たちが受けるとき、その瞬間に、社会に化学変化をもたらし、事態を好転させ得るのです。暴力には、正当な源泉がなく、それが究極的に無であることは、地元で現れようと、世界的規模で現れようと、同じことです。聖書が言っているように、私たちの戦いの武器は、霊的であり、肉のものではなく、「のためには要塞をも破壊するほどの力あるもの」(第2コリント10:4)なのです。

かつて、デトロイトの私のアパートのテラスで、元暴力団のリーダーだった人をインタビューしたことがありますが、そのときに、謙虚さというものについて、そしてそれが「武装を解除する」力を持つことを、垣間みました。ビルの23階から見る眺めは、とても心を落ち着かせます。私たちは、セント・クレア湖に流れ込むデトロイト川を眺めていました。遠くには、グロスポイントの町が見え、眼下には砂とほこりでざらざらしたデトロイトの街が見えました。

彼とその景色を眺めているとき、私はクラッシック音楽の歌のデュエットをかけていました。また、その場には、Motown (自動車の街、デトロイトの通称)の伝説的人物、Marvin Gayの ”What’s going on” のクラッシック・アルバムの制作に携わったSteve Smithというスタジオ・エンジニアがいました。Smith氏は、この元暴力団のリーダーが、少年たちが建設的な活動を見いだそうとしているのを、支援していました。歌はイタリアの伝説的オペラ歌手、Luciano Pavarotti と、偉大なソウル歌手、James Brown によるデュエットで、 Brown氏が30年以上前に書いた曲、”It’s a Man’s World” でした。

その元暴力団リーダーは、James Brownがソウルミュージックのゴッドファーザー的存在であることは知っていました、しかし、彼は聞いたのです:「このLuciano Pavarottiっていうのは誰ですか?」と。何年か前に、彼に初めて会ったとき、私は彼のことを恐れていました。彼は、数多くの犯行におよび、彼のイメージや姿は、私が知るの子の意味するものすべてに挑戦するものでした。彼に関することすべて、彼のそれまでしてきたことすべてが、破壊的で有害に思われました。一言で言うと、私は、醜い暴力団リーダーを見ていたのです。私は、もっと高い所に行かなければなりませんでした。私の考えが、変わらなければなりませんでした。

いったん「私自身」が変わり、霊的感覚の「目」で彼を見るようになると、希望が現れてきました。社会の危険人物ではなく、彼の真の身分について考える必要がある人物と、力を合わせてゆく意義を認識しました。今日、彼は、少年たちに平和と調和をもたらすための平和活動のリーダーです。この元暴力団リーダーは、地域に道徳感を生み出しています。彼の指導の下にある街で、暴力が広がることは許されません。彼の武器は、知恵であって、「ガット」(街の言葉では銃のこと)ではないのです。彼が与える印象は、肯定的であり、力強く、しかも優しいのです。

何年か前なら、彼は、イタリアのオペラ歌手のスーパースターなど、気にも留めなかったことでしょう、オペラ歌手は、彼にとって相応しい色ではなかったからです。それが、今日、彼の言葉は、私の耳に優しく聞こえてきました;「いやー、ヤツ、なかなか歌えるなあー。この歌、見事に歌ってるよ。クールだよ。名前なんて言ったっけ?」

あの日、私たちが会ったこと、二人の歌手があの歌を一緒に歌っていることを思いだして、私は、つい、にっこりしてしまいました。Pavarotti と Brownほど異なる2人の歌手、一人はオペラ、もう一人はリズムとブルースという、極端に異なる音楽の世界の2人の歌手が、共に仕事をし、バランスと相互理解を生み出すことができるのです! 裏街文化のリーダーたちが、象牙の塔の人間たちと協力して、益をもたらすことも、同様に、正常であり、素晴らしいことではないでしょうか?

暴力の潮流を押し返すには、一つのがもたらす理解のすべてを必要とします。がその子らに与える、均衡のすべてを必要としています。

『さきがけ』の使命

1903年に、メリー・ベーカー・エディは、『キリスト教科学さきがけ』を創刊しました。その目的は、「真理の普遍的活動と有用性を宣言する」ことでした。ある辞書によると、『さきがけ』定義は「先発の使者」(先触れ、先駆け)ー 後に起こる事が近づいていることを告げるために先立って送られる者、使者」であり、『さきがけ』という名称に重要な意味を与えています。さらにまた、この定義は、私たちの義務を指し示しています。それは私たち一人一人に課せられた義務であって、私たちには、私たちの『さきがけ』がその責務を十分に果たしているか見届ける義務があるのです。この責務はキリストと不可分であって、まず初めに、イエスが、「全世界に出て行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えよ」(マルコ 16:15)と述べて、表明したものでした。

Mary Sands Lee (メリー・サンズ・リー)、Christian Science Sentinel, 1956年 7月 7日

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