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論説

誰が支配しているのでしょうか?

キリスト教科学さきがけ』2010年04月 1日号より

The Christian Science Journal, September 2009


体の機能がおかしくなっていることが、心配ですか。組織がどのように運営されているか、心配ですか。あるいは、国の経済や健康保険制度の先行きが、心配ですか。これらの懸念は、「誰が支配しているのか」という一つの根源の問題に、集約されるのではないでしょうか。

最近、私は、編集部の同僚たちと、世界各地から来て、夏期の研修生として母教会で働いている若者たちと会いました。彼らの挙げた問題の一つが、「自分たちも同世代の若者たちも、自分の将来を自分でコントロールできないのではないかと感じている」、というものでした。大荒れの経済や社会状況は、特にこれから就職しようとする人たちに、先が見えないという感覚を与えています。Christian Science Sentinelの記事のテーマとして、ある研修生は、「『卒業後、奈落の底に突き落とされる恐怖』というのはどうでしょう」と提案しました。

これは、論点を率直に突いていると思います。それにしても、産業全体が収縮して、貴重とされていた従業員でさえ、突然に職を失うという今日、卒業後、そういうことも十分にあり得るでしょう。また、ずっと続くと思っていた人間関係のなかで、突然一人が抜け出してしまうこともあり得るでしょう。こんなとき、誰が、あるいは、何が、支配しているのでしょうか。私たちは、あのアメリカ映画Forrest Gump「フォーレスト・ガンプ」に出てくる、空中を舞う鳥の羽のように、自分の力の及ばないさまざまの出来事によって、人生が翻ろうされる登場人物のようなものなのでしょうか。

それとも、真に、いつでも、どこにでも存在し、常に加護してくれる生命原理が、あるのでしょうか。大きなオーケストラの中で、私たちの存在を示す音を、他のすべての音にぴったり合わせ、公平に愛し導き、決して間違うことがない、そんな支配の源があるのでしょうか。キリスト教科学は、はい、ありますとも、それが正にであり、のなすことです、と答えます。

この支配力についての神性科学は、私たちが苦労して獲得した統御力は、決して私たち個人が我がものとして所有することができるものではないこと、ましてや創造し得るものでもないことを、示します。支配力は、その霊的意味において、個人が所有するものではなく、また、「ある人は持っていて、他の人は持っていない」というような事柄のものでもないのです。支配力は、その神性の源に属しています。しかしながら、誰でも、必要な時には、いつでも、より大きな支配力を示すことができるのです、なぜなら、それは、すべての人の組成に属する、霊的知性から派生するものだからです。私たちは、支配力の生ずる本当の源の完全さを垣間みるだけで、私たち自身が反映しているゆえに持っている完全性について、もっと良く知ることができます。つまり、それは、に創造されている人、ひとりひとりが、落ち着きと、穏やかさと、自律によって、を現すために所有している能力なのです。

従来、支配力は、人間の自己主張とか、個人の力によって決められてきました、それは時に内的なものであることもありますが、一般に、雄々しさとか、高慢な態度に関するものとされてきました。こういった見方は、本質的に、人間をすべての中心に据え、については、その存在があるにしても、どこか「離れたところ」に置きやるものなのです。メリー・ベーカー・エディは、物質主義の生命に関する見解とはまったく対照的に、霊的な自己を次のように定義しています:「自らの生命・知性・創造力は持たないが、造り主に属するものすべてを、霊的に反映するもの」(『科学と健康—付聖書の鍵』、p. 475)。そして、彼女は、この造り主であると定義した上で、「神性の知性に支配されているので、人は調和していて、永遠である」(『科学と健康』, p.184)と結論づけています。

イエスは、この存在について明らかにされた真理を、誰よりもよく生きました。イエスの生涯は、-母が支配する慈しみを、具体的に現しました。彼が行なったこと、水の上を歩いたり、病気を速やかに治したり、人を死からよみがえらせたりしたことは、奇跡のように思われます。しかし、イエスの時代の人々、またそれ以降の人々も、物理学も、生理学も、そして、「もろもろの恐れの王」にしても、究極の権威を持っていないことを証明しているのです。生命がそれを持っているのです。唯一の生命である原理が、生きるものすべてを、そして、その永遠の本性を現すものすべてを、支配し、維持しているのです。

生理学は、人間の体は、自力で働く組織であり、それはまた時を経て、退化する組織であると主張するかもしれません。聖書の科学は、体は、思考状態が客観化されたものであることを明らかにしています。祈りが、の一新させる影響力、つまりキリスト、を受け入れると、思考が改善され、キリストによって再生された思考は、完璧な、また正常な機能という結果をもたらします。

しかし、本当の癒し、つまり、健康についての純粋な平安、人生の次の段階、また、私たちが世界全体のシステムにどのように適合できるかということについては、「(私たちの)造り主に属するものすべて」を垣間みることによって、得られるのです。自分をに属するものとして見るならば、つまり、常に愛され、採用されているものとして見るならば、自分で支配したいという願望は、すべて消えていくことでしょう。


『さきがけ』の使命

1903年に、メリー・ベーカー・エディは、『キリスト教科学さきがけ』を創刊しました。その目的は、「真理の普遍的活動と有用性を宣言する」ことでした。ある辞書によると、『さきがけ』定義は「先発の使者」(先触れ、先駆け)ー 後に起こる事が近づいていることを告げるために先立って送られる者、使者」であり、『さきがけ』という名称に重要な意味を与えています。さらにまた、この定義は、私たちの義務を指し示しています。それは私たち一人一人に課せられた義務であって、私たちには、私たちの『さきがけ』がその責務を十分に果たしているか見届ける義務があるのです。この責務はキリストと不可分であって、まず初めに、イエスが、「全世界に出て行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えよ」(マルコ 16:15)と述べて、表明したものでした。

Mary Sands Lee (メリー・サンズ・リー)、Christian Science Sentinel, 1956年 7月 7日

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