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信仰を持つことの価値

キリスト教科学さきがけ』2010年05月 1日号より

Christian Science Sentinel, April 27, 2009 


コネチカット州ハートフォードにあるトリニティ大学(Trinity College) が行なっている、社会の価値観について学ぶプログラムが調査を行ない、その結果が、『USニュース&ワールド・リポート』(US News & World Report) 2009年3月16日号に発表されました。それによると、今日のアメリカの宗教事情のなかで最も急速に増えているのが、「信仰を持たない人々」であるということでした。この調査の目的は、自分は信仰を持たないと考える人が、なぜこのように増しているのかを、多少とも知るためということでした。これらの人々の中には、自分は無神論者だ、不可知論者だと思っている人もいるでしょうが、多くの人は、信仰そのもの、至高の存在、つまりを、信じていないのではなく、宗教の実践方法に異議を唱えているらしいのです。「人を裁く傾向」、また「勝利主義」(自分たちの宗教が、他のすべて宗教に勝る)という態度、そして、いくつかの宗教を揺さぶってきた恥ずべき事件で明白になった偽善行為などが、指摘されています。それに加え、「教会礼拝研究センターの宗教と社会生活についての調査フォーラム」(Pew Research Center’s Forum on Religious and Public Life) によると、アメリカ人の大半が、教理的でない信仰を求め、(http://religions.pewforum.org/reports参照),多くの人が、信仰を持つことの意味について、懐疑的になってきているということなのです。

しかし、もしかすると、このような現象は、宗教にとって健全なことなのかもしれません。 このような自省こそ、心から行なうのであれば、宗教がより高度な実践に至るために、必要なのかもしれません。宗教とは何かについて、十分に考えたとき、行きつくところは、高い理想、なる神性原理によって形成された理想を、発展させ、それを実際に生きることを学ぶことなのではないでしょうか。

私の友人たちの中には、宗教は、理性と思考の自由を束縛する、という人たちがいます。しかし、私は、その正反対が、真実であることを学んでいます。信仰の有効な実践について、メリー・ベーカー・エディは、彼女の先駆的書物、『科学と健康—付聖書の鍵』の中で、宗教についての考え方と実践の模範を、次のように示しています:「人の心に、この霊的な理解が浸透すると、より弾力性をもち、より大きな持久力を得、多少とも自分自身から逃れて、以前ほど休息を取らなくてもよくなる。存在の科学について少しでも知識を得れば、人の潜在能力と可能性を発展させる。それは考えの空間を拡張し、人間がより広い、より高い領域に入ることを可能とする。それはまた、思索する人を彼本来の洞察力と明敏さにまで高める」(p.128)。

この著者の発見した(発明ではない)「存在の科学」、つまり生命を構成する霊的法則と原理は、真の宗教の真髄に触れるものではないでしょうか。つまり、限られた人間の考えを超越して、より高度な思考と知性を見いだすこと、真の霊的基準を見いだすことではないでしょうか。真の宗教は、より崇高な真理の理解を求めるゆえ、真理を論理的に解明するために単に物理的に観察し実験するという束縛から、考えを解放してくれるのです。目に見えて明らかなことを疑問に思い、一般に受け入れられていることに挑戦して、考えを「より広い、より高い領域」に押し進めるのではないでしょうか。

聖書の中のタルソのサウロが、良い例でしょう。宗教の真髄とは何であるのか、苦闘するなかで、彼は、自分と同じように考えない人々を迫害するという独善主義の虜になってしまいました。高僧からもらった、彼の思いが正しいとする手紙を武器に、ダマスコへ行く途中、彼は、人生を根本から変える体験をしました。彼は、キリスト、神性の真理、の光に触れ、この真理の霊的感覚が、彼を限られた物質的見解から解放して、もっと霊的な考えの領域に導いたのです。

ある意味で、私たちはみな、「真理とは何か」という、永遠の問の答を探し求めているのです。従来通りのもの、身近なもの、心地よく感じているものに対して、霊的洞察による確信をもって疑問を投げかけるとき、直感からくると思われる解答を見いだすでしょう。よく人が言うように、霊的真理に目覚めたとき、それは、以前から自分が知っていて、ごく自然なこと、そして今や、それが当然のことだということが分かるのです。

私たちの大部分は、子供の時から、身の周りのことを把握するために、身体感覚に頼るように訓練されています。しかし、実在の限界まで探索するということは、目に見えるもの、感じるもの、聞こえるものを、進んで超えてゆく必要があることを意味します。信仰の実践は、私たちの霊的感覚、つまり、私たちの洞察と霊感の大いなる源泉である神性のとの関係を、どのように活用し、発展させてゆくことができるかを、教えてくれるのです。

長年にわたり、私自身、人間的な限界に至ったと思われるとき、この霊的感覚に頼ることによって、新しい展望を見いだすことを学んできました。そして、それによって、多くの人を助けることができました。「人の苦境はの好機である」と言われていますが、これは、私たちが人間的な、または、この世的な推論の限界に突き当たって初めて、もっと壮大な考えの領域に入っていくことができるからなのです。しかし、実は、まさに人間的限界に至ったと思われるその瞬間、神性の知性であるは、私たちの生来の能力を、の霊的表現として、私たちに示してくれているのです。多くの人が、信仰を持つことに疑問を抱いているとすれば、それこそ、この神性の真理が働いていて、私たちが自分たちの可能性のすべてを活用するように、後押しされていることの証拠なのかもしれません。


ロン・バラード氏は、キリスト教科学実践士、また教師であり、米国、オレゴン州、アシュランドに住んでいます。

『さきがけ』の使命

1903年に、メリー・ベーカー・エディは、『キリスト教科学さきがけ』を創刊しました。その目的は、「真理の普遍的活動と有用性を宣言する」ことでした。ある辞書によると、『さきがけ』定義は「先発の使者」(先触れ、先駆け)ー 後に起こる事が近づいていることを告げるために先立って送られる者、使者」であり、『さきがけ』という名称に重要な意味を与えています。さらにまた、この定義は、私たちの義務を指し示しています。それは私たち一人一人に課せられた義務であって、私たちには、私たちの『さきがけ』がその責務を十分に果たしているか見届ける義務があるのです。この責務はキリストと不可分であって、まず初めに、イエスが、「全世界に出て行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えよ」(マルコ 16:15)と述べて、表明したものでした。

Mary Sands Lee (メリー・サンズ・リー)、Christian Science Sentinel, 1956年 7月 7日

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