大学を卒業したとき、僕は知るべきことはすべて知っていると思った。卒業証書を受け取ったとき、僕は、帽子を高く空に放り上げ、さあ、自分はこれから世界を制覇しに行くぞ,何物も、絶対に僕を止めることはできないと思った。
大学で僕は、ただ一人のキリスト教科学者であったため、キリスト教科学者であることの意味を自分一人で探究する機会がたくさんあった。自分と神との関係についてずいぶん学び、限界を設けずに、神をどのように表すかについても多く学んだ。そして、もっともっと学びたかったので、卒業後の夏のヨーロッパ旅行までの読書計画表は、短く単純なものだった。つまり、僕はようやく、キリスト教科学の教科書である『科学と健康』を最初から最後まで通読しようと決めたのである。
そんなある朝、旅行に発つ一週間前、目を覚ますと、目に何か違和感を覚えた。すぐに確かめることはしなかったが、かなりの時間、不具合を感じ、後で鏡で見ると目が真っ赤になっていた。以前にも同じような症状で苦しんだことを思い出した。そのため、それから8年間、僕は乳製品を食べることを止めていたのである。僕はすぐに『科学と健康』に示されている考え、つまり、メリー・ベーカー・エディが「目」について与えている次の形而上学的な解釈、「霊的な識別力、―物質的ではなく、心的なもの」(p.586)、 を使って祈 り始めた。僕にとって、霊的識別力としての視力とは、物質的に現れているものに焦点を合わせないで、すべての人、すべての物の中に、神の特質を見ることだった。見る能力は、神から来るものであり、眼球の虹彩によるものではなかった。視力は、霊的であり、物質に依存しているのではないことが分かった。不快感はまもなく消えてしまった。僕は勉強を続け、夜はぐっすり眠った。
翌朝、目が覚めたとき、一方の目はほとんど開けることができず、見ることがとても困難だった。再び聖書と『科学と健康』の勉強を始めたが、事態は、次第に悪くなってゆき、そのうちに目が完全にふさがってしまった。僕は、この問題で旅行に行けなくなるのではないかととても心配になり、キリスト教科学実践士に連絡をとった。「ただ、神がすべてであることを知りなさい」という、彼女の静かで穏やかな言葉は、子供のときに学んだキリスト教科学の基本原理に立ち返るように、ということだった。その理念は必ずしも単純ではないと思ったが、僕はこの考えを使って祈ることを約束した。
僕は、初めてspirituality.comでの検索を試みようと思い、「目」と打ち込み、目に関連する癒しの証しをいくつか見つけた。見つけた癒しのひとつは、僕の場合と非常に似た状況にあった若い女性が書いたものだった。彼女は、外国で勉強していたとき、両目が炎症を起こして帰国せざるを得ないと感じていた。自分一人で何とか問題を解決しようと努めたあとで、キリスト教科学の実践士に電話した。彼女は次のように書いている。「私が状況を説明すると、実践士は、私が今どんな人生経験をしているのかと尋ねた。私は大学を卒業したばかりで、次のステップを考えているところです、と答えた。彼は一瞬黙っていたが、『これは(アイ)「私」の問題ですね!』と言った…受話器を置いたとき、両目とも、すっかりよくなっていた」(Journal, 2007年12月、p.35)。
これらの記述を読んで、僕は思わず息をのんだ。即座に身体の問題が癒されたのではなかったが、その瞬間に自分の考えが完全に変わっていたのである。僕はあまりにも自分自身、つまり自分の新しい冒険や、自分の将来ばかりに、考えを集中させていたので、神のことをすっかり忘れていたのだ。自分のエゴを膨らませるのではなく、唯一の力である神を認め、自分の意思を神に謙虚に委ねることが必要だったのだ。あの実践士の、簡潔で実際的な言葉が、突然、新しい力強い意味を持った。
また、聖書の次の言葉、「わたしは、自分からは何事もすることができない」(ヨハネ5:30)が、霊感をもたらしてくれた。神が善の源なので、神なくして、僕が自分の力で立派な事ができるなどと考えるのは、ばかげたことだった。僕が達成したことは、僕のものではなかった、それは、僕と、僕の真の父母神との関係が強められたことの証拠だったのである。『科学と健康』のすばらしい一節がこの関係を明示している:「霊的な人は、この自我の似姿である。人は神ではない、しかし太陽から来る光線のように、神からくる結果であって、神を反映している」(p.250)。この一節において、自我という言葉は、神を意味している。神との関係をもっとよく理解できるように祈っていると、僕は自我の感覚を捨て去って、自分の人生を、神の手の内に委ね始めていた。
僕は『科学と健康』を読み続け、最終章の「結実」まで来た。そこには、人々がただこの本を読み、勉強しただけで受けた癒しの証言が書かれている。僕はいつも、百年前に生きていた人々の癒しが、僕とどんな関係があるのだろうかと思っていた。しかし、読み進むにつれて、2〜3ページ毎に目に関する癒しの証言が載せられていることに気づいた。僕が経験したのとほとんど同じような問題のなんと多いことだろう!「結実」の証言は、僕の癒しにとって確かに肝要のものだった。僕はこれらの証しを読むことがとても楽しくなり、これらの人々に非常に親しみを感じるようになった。その人たちの多くは、キリスト教科学で癒しを見いだすまでの長いあいだ、癒しを探し求めていたのである。
ついにヨーロッパに出発する日を迎えたが、僕の目はまだ完全にもとに戻ってはいなかった。それでも、かなり良く見えたし、目の様子がおかしく見えることを気にして、気落ちするようなことはなかった。毎日、祈りのために時間をとり、それを他のさまざまな活動にとりかかる前に過ごす貴重な時間とした。目の様子を確かめるために、鏡をのぞくことを断固拒否し、自分が神の反映として完全であることを理解することに、考えを集中した。
正確にいつだったか分からないのだが、ヨーロッパに着いて2〜3日のうちに、目は完全に癒された。僕は神を完全に信頼しつづけ、この高められた癒しの意識が、それから2ヶ
月間のバックパックの海外旅行中、ずっと自分を支えてくれた。導きを求めて耳を傾け、また祈りながら、全力で神に仕えていると、旅が祝福と癒しに満ちたものとなっていた。
僕は、目が癒されたばかりでなく、アレルギー体質と、アレルギー反応を起すことへの恐怖から、完全に解放された。以来、乳製品を食べてもアレルギー反応は起こらない。また、この旅の間に得た、神に対する新しい信頼と、神に進んで仕えたいという思いによって、薬物やアルコールへの執着から癒されるというすばらしい経験をした。これは、僕がかなり長いあいだ苦闘してきた問題だったのである。
僕のこの考えを変え、癒しをもたらしてくれたのは、このJournal誌に以前発表されたある若者が経験した霊的な打開策だった。僕の経験も、同じように癒しを求めている他の人々に霊感をもたらすことができればと願っている。