4年程前のある日、手に醜いイボがあることに気がつきました。初めは無視していたのですが、やがて非常に気になってきました。どんな問題に直面しても、私は、いつもそうしてきたのですが、キリスト教科学で教えるように、積極的に祈らなければならないことに気づきました。
初めのうち,私は身体的なレベルの問題として、状況を解決しようとしていました、しかし、それは誤ったやり方でした。私はイボが望まれないもので、醜いものだと認め、祈りによってそれを取り除こうとしていたようでした。そうではなく、私は自分の考えを、神は愛そのものであるという霊的事実に向けなければなりませんでした、つまり、私は、神に愛されている子として、神の反映として、生来完全である以上、不完全さを現すことはできないということでした。祈り続けているうちに、祈りで何かを「直す」のではなく、私に本来備わっている霊的な完全さという正しい観点から、祈ることができるようになりました。間もなく、私の考えの中で明らかにされたことに、びっくりしました。
当時、私は、南アフリカでMBA(経営学修士号)取得のため、大学に戻っていました。 その学期は、とくに金融と数学を主に扱うクラスを3つ取っていました。特に難しかったのは、経理の上級クラスで、授業のあと度々自分にいらだち、自分の頭の悪さにいらいらしていました。私は勤勉で、まじめな学生でしたが、教授は明らかに私のことを嫌っているようで、私を無視するか、質問しても皆の前で子ども扱いするので、恥ずかしい思いをしていました。この教授の態度に、私は怒りを覚え、日が経つにつれ、私の独善的な怒り、傷ついた気持ちが、まるでゴム風船のようにふくらんでゆきました。
それから2〜3週間後、町のキリスト教科学の教会で行なわれる水曜集会(癒しの証しの会)でのことでした。私たちは次の言葉が含まれている賛美歌(Christian Science Hymnal, No. 278)を歌いました:「あなたの固いしこりは癒された、神の愛がそれを溶かしてしまった」。何気なく指がイボに触れ、そのとき、突然、自分が例の教授と彼のクラスに対して嫌悪感を抱く前、こんなイボは無かったことに気づきました。このイボは、私の「心の固いしこり」を現していることに気づきました。
それは、目覚めよ!という警告でもありました。それでも、私は「でも、あの人は、本当に嫌な人なんだ」と思ったことを覚えています。憎しみ、自己弁護、怒りが、なかなか捨てきれませんでした。ところが、その瞬間、私の教授に対する考えと、体に現われた醜いイボが、関連していることがはっきり分かったのです。
その集会のあいだ中、今、歌った賛美歌と、メリー・ベーカー・エディの ”Satisfied” という詩(Poems、p. 79)の中にでてくる、次の言葉を考えながら祈っていました:「愛は、私を解放し、高める、憎しみの束縛の届かない所に…」。私は、愛、神が、教授と私の双方の創造者であること、そして、その愛のみが、力を持ち、私にとって必要なことである心を解放し、高めているのだということを考えました、つまり、それは私の責任ではないということでした。私がしなければならないことは、神に焦点を合わせ、神がどんなに私を愛し、また、私が神をどんなにか愛しているかということに、焦点を合わせることでした。
私に対する教授の態度は,少しも変わっていませんでした。それでも、クラスがそれから数ヶ月して(私も落第しないで)終了したとき、私は、まだ、どのように彼を許し、否定的な考えを持たないようになれるのか、祈り続けていました。例の賛美歌を使って祈っていました。しかし、それから4〜5週間後、ある劇的な経験をするまで、完全な癒しはありませんでした。
このとき、私は夫とイギリスのロンドンで水曜集会に出席していました。教会の壁に、メリー・ベーカー・エディの次の言葉が刻まれていました:「彼[イエス]が墓の中でした三日間の仕事は、時に対して永遠の封印を押した。彼は、生命には死がないこと、愛は憎しみの征服者であることを証明した」(『科学と健康』、p.44)。
私はこの言葉から目を離すことができませんでした。特に、次の語句を、何度も読み返していました:「[イエスは]…愛は憎しみの征服者であることを証明した」。私はイエスがその三日間の間、墓の中で何を克服したのか考えました;それは彼の教えた真理に対する究極的な憎しみでした、そして、それが彼を十字架にかけたのでした、そしてまた、私は、彼がどのようにして無条件の愛を実証したかということも考えました、それが、彼を復活に導いたのです。それから、「征服者」という言葉の意味についても考えました。それは、勝利すること、勝つこと、克服すること、であることに気づきました。そして、愛が憎しみを征服するのであれば、愛は、常に憎しみに勝利するということであり、それならば、私は愛の側に確かにいるように、心していなければならないことが分かりました。
このことに気づいて、私は喜びにあふれていました。その瞬間、長いあいだ心の中で固いしこりになっていた憤り、いらだちを解き放つことができました。私は、実際に重い荷物を降ろしたようでした。それがどれほど重荷になって、私にのしかかっていたか、それまで知らなかったのです。私は、この愛についての発見、そしてそれが私の生活の他の面にも及ぼしている影響に、本当に嬉しく感謝しました。そして、指については、ただの一度も考えませんでした。
何日かたって、自分の手を見たとき、手のイボがすっかり無くなっていることに気づきました。イボのあったところの皮膚はきれいで、何の跡も残っていなかったのです。イボは、その後、2度と現れていません。完全に癒されたのです。この経験から学んだ大きな教えは、私の考えが変わったとき、自然に私の体も調整されたこと、それが実践的な、証明可能なキリスト教科学の科学的本性であるということでした。これが、理解をもって、一貫して癒すことを可能にする科学なのです。私は神に心から感謝しています。
米国、マサチューセッツ州、ボストン