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悪は、どこからくるのだろう?

人生で最も難しいパズルの一つを解く

キリスト教科学さきがけ』2009年10月 1日号より

Christian Science Sentinel, February 9, 2009


何十年か前、私がアイダホ州北部の大学の学生だったころ、キリスト教科学の講師らのあいだで話題になっていただろうと想像される話があります。それは次のようなものです:「アイダホ大学のキリスト教科学大学団に講演に行くのでしたら、少々ご注意ください。ある青年がやってきて、悪はどこからくるのかと、しきりに尋ね、そして、あなたがこの質問にどのように答えても、彼は満足しないでしょう」。

その青年とは、実は、私のことでした。名前の後にCS(キリスト教科学実践士)とか、CSB(キリスト教科学教師)を付けている人が、大学の近くにやってくるなら、私から、きっとこの質問を受けたことでしょう! 私は、彼らの答えに不満であったというのではなく、むしろ、大きなパズルを完成しようとして、たくさんの小さなコマを集めていたのでしょう。

人はそれぞれ自分でこの問題について、自分の考えを整理する必要があると思います。しかし、もし、私の歩んだ道に興味がおありでしたら、どうぞ、私とのこの短い旅にご参加ください。

私は、キリスト教科学が聖書から受けている基本的な前提を受け入れていました。すなわち、の実在は無限に善である。そして、すべてである。それゆえ、悪には、に基づく起源も実在もない。悪は、むしろ誤り、間違い、幻想、嘘、動物磁気、あるいは思考の催眠状態といった類いに属する。この論理は妥当だと思っていました。私は、これらのことについては、質問に答えてくれる人々と同じように理解していると思っていました。しかし、私の疑問が解けなかった点は、もしが無限で、完全で、永遠なるであるなら、どうやって幻想や嘘や失敗が、その中で根を張ることができたのか、ということでした。悪は、どのようにして始まったのか? 嘘が始まる、あるいは嘘を受け入れるような意識は、どこにあったのか? 私は学生時代を通して、またその後も、これらの疑問と格闘していました。

そして、ついに、満足のいく答えなど無いことに、気づき始めました、つまり、人間の心にとっては、です。そして、それから、私は真に私の疑問に答える何かを見いだす希望を、持ち始めたのです。私が、人間の心でこの疑問を解こうとする限り、平安を得ることはできないということでした。人間の心は本来、このジレンマ、この謎を理解できるように作られてはいないのです。神正論に関するこの大いなる問、つまり目前に悪を見ながら、無限の善であるを正当化するということは、限界のある思考によって把握されたことはなく、また今後とも把握されることはないでしょう。

学生時代に、私はキリスト教科学の初級クラス指導を受けましたが、これは私の霊的成長を助け、特にが、すべてであること、一つの完全なであること、また、癒しは、この真理を理解した結果得られるものであることを、理解するのに役立ちました。次第に、私の考えは、人間の心の観点からこの問題に取り組むことを止めるようになりました。そして、決定的な時点が訪れたのは、一週間以上、診断を受けずに病気で苦しんでいたときのことでした。もう30年以上も前のことですが、ある晩、学校から家に帰る途中、山道を歩いているとき、思考の曲がり角を曲がったのに気づいたのを、今でもはっきり思い起こします。

私はキリスト教科学が悪について教えていることについて、ずっと考えていました。そして、突然、メリー・ベーカー・エディが、悪は実在しないということを発見したことに対して、感謝の気持ちで胸がいっぱいになりました。その瞬間、病気は消えてしまいました。それは深遠な経験でした。その瞬間に起こった劇的な変化の意味を、把握したいと思いました。これが、キリスト者たちが、即座の、自然の(罪の)赦免と呼んでいるものなのだろうか? 奇跡なのだろうか? 幾日も熟考したのち、私は、人間的推論を超えて、永遠の真理を垣間見たのだという結論に至ったのです。それは、の実在、一つのの実在のために、人間の心が脇に追いやられた瞬間でした。

明らかに、これはパズルの重要な一コマであり、実在を、人間の心ではなく、神性のの観点から見るのでなければ、このしつこい質問に対する満足のゆく答えを得ることはできないということを、私が理解する大きな助けとなりました。では、人生を、この観点に立って理解するために、私はどうやって、このと十分に一体になることができるのでしょうか? それは、癒すことによってのみ、できるのです。自分自身を癒すこと。他の人々を癒すこと。世界を癒すために手助けすることです。キリスト教科学の癒しは、その一つ一つが、肉体的自由を得ること、争いを調和に置き換えること、また罪が無垢に屈服すること、以上のものなのです。真正のキリストによる癒しは、霊的実在を垣間見させてくれるのです、また感じさせてくれるのです。すべての癒しは、私たちの人生を、人間的な展望から離れ、神性の展望に、少しでも近づけてくれます。

人間的見方は、いずれ必ず崩れ去ることでしょう。神性なるものは、悪を知りません。過去において知らず、未来にも知ることがありません。この探求において、満足できるただ一つの方法は、人間のものから神性のものへと移ることであることが、私に明白になりました。そして、それは、癒しと共に起こるのです。一つ一つの癒しと共に、日々、起こるのです。

子供だった頃、私は悪はベッドの下に隠れていると思っていました。大学生になって、悪は実在しないと考えながらも、この理論をどのように日々の生活と一致させるか、はっきり分かりませんでした。今や、私は、このパズルから解放されていることを感じます。

人間的なものから離れ、神性のものへ向かうことが、悪はどこから来るものでもない、という啓示をより強く確信させてくれます。それ以上に、癒しの一歩一歩を通して、悪がどこで、どのようにして起こるのかという問題で格闘する必要がない意識を、実証することができるのです。

神性の意識は、「すべて」を知っているのです。それは、永遠に悪を知らず、また悪の起源も知りません。この意識は、永遠で、途切れない善の無限の真理のみを知り、愛しています。この意識を、あなたも私も、生き始めることができるのです。一つ一つの癒しを通して。

ネイト・タルボットは、キリスト教科学の癒しを実践し、教えている。彼は母教会の書記であり、キリスト教科学理事会の一員であり、米国マサチューセッツ州チェスナット・ヒルに住んでいる。

『さきがけ』の使命

1903年に、メリー・ベーカー・エディは、『キリスト教科学さきがけ』を創刊しました。その目的は、「真理の普遍的活動と有用性を宣言する」ことでした。ある辞書によると、『さきがけ』定義は「先発の使者」(先触れ、先駆け)ー 後に起こる事が近づいていることを告げるために先立って送られる者、使者」であり、『さきがけ』という名称に重要な意味を与えています。さらにまた、この定義は、私たちの義務を指し示しています。それは私たち一人一人に課せられた義務であって、私たちには、私たちの『さきがけ』がその責務を十分に果たしているか見届ける義務があるのです。この責務はキリストと不可分であって、まず初めに、イエスが、「全世界に出て行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えよ」(マルコ 16:15)と述べて、表明したものでした。

Mary Sands Lee (メリー・サンズ・リー)、Christian Science Sentinel, 1956年 7月 7日

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