最近、グーグルで、"conflict resolution"「争いの解決」を検索してみたところ、2600万件以上もあることが分かり、この世界にはいかに沢山の「争い」があり、一方「解決」はあまりにも少ないとの印象を新たにした。といっても、意見の不一致を解決するということは、2組の相反する、矛盾する見解を、混ぜ合わせることであることを認識するなら、それも驚くに値しないことなのだろう。それにしても、この数字は、人間関係には、もっともっと調和と癒しが必要であることを示唆している。
ともかく、人間社会の争いには終わりが無いようである、職場の緊張、学校でのいじめ、兄弟げんか、家庭の不和などと際限がない。紛争解決の専門家の中には、不一致は良いことだと主張する者もいる、なぜなら、それは究極的に適応力を助長し、説得力を向上させ、悪意を衝突させずに意見の不一致を容認することを、人に教えるからだと言う。人間の摩擦は有益なのだ、平和の構築に向けて人を動かすから、と彼らは言う。
キリスト教科学を学ぶと、争いの解決は、心理学の働きではなく、また、専門家らが人間関係の改善を図る戦略の中に見いだされるものでもないことが、明白になる。最も崇高な思考の次元において、争いの解決は、人が神性なるものを受け入れることを学ぶ霊的過程であり、より正確に言うなら、神性なるものがいかに人を包み抱くかを、理解する霊的過程である。
摩擦や紛争状態に直面したとき、次の洞察に富む問いかけを自らにしてみるとよい:「それでは、イエスなら、あの偉大な模範を示したイエスなら、このような状況にどう対処するだろうか? 同じような状況下にあったとしたら、イエスは、どのように考え、語り、行動しただろうか?」その答は、イエスは常に、人々の考えを、彼ら自身から、またその時の状況から切り離して、神に向かわせた、ということである。
福音書は繰り返し、イエスが、今日、争いの調停に携わっている人々が直面する問題と、非常に似た問題に出会っていたことを示している。そして、イエスの解決策は、しばしば、人間の不正に対する感情よりも、知恵を優先させるものだった。
例えば、イエスが、友人である、ベタニアのマルタの家にいたとき、彼女は、心を乱してイエスのところにやって来て、自分が「接待」のため一人忙しくしているのに、妹のマリヤは心地よくイエスの教えを聞いていると不満を述べた。しかし、そのとき、イエスは、マルタを静かに戒めたのである。イエスは彼女に、マリヤが学んでいることは、昼食よりも大切なものだ、と言ったのである(ルカ 10:38-42参照)。
そしてまた、ある人が、イエスに、遺産を分けるように兄弟に話してほしいと頼んだが、イエスの応えは、「人よ、だれがわたしをあなたがたの裁判人または分配人に立てたのか」というものだった(ルカ 12:14 参照)。そして、イエスは、その悩める人の心を、貪欲や遺産などというものから、より高度な霊のものに向き直らせ、そして、神は、人が神に願う前に、その人の必要とするものをすでに知っていることを実感させたのである。しかしながら、それは、「すべての人に満遍なく」という紛争解決の基準とされる方程式ではなかった。いずれの場合にも、イエスの解決策は、平等に半々に分ける、というものとは、およそかけ離れたものであった。そうではなく、イエスは、各々に、目で知覚される公平感よりも、彼らの心的、道徳的、霊的成長を、優先させるべきであることを明白に示して、彼らを励ましたのである。
イエスが実践した争いの霊的解決法は、伝統的手法を公然と拒むものであった。律法学者やパリサイ人が、不貞の「現行犯」で逮捕された女を、イエスの面前にひきずり出してきたとき、イエスは、敵意を抱く神学者たちがいつ爆発してもおかしくないような、緊迫した状況の中に置かれていた。しかもそれは、エルサレムのユダヤ教の聖なる神殿での出来事であった。パリサイ人らは、モーセは律法の中で、そういう女は石で打ち殺せと言っていると、イエスに高飛車に迫った。彼らは、その女が有罪となることを願っていた。イエスがモーセの律法に反することをすれば爆発しかねない緊迫した空気だった。
イエスは英知をもって、この最高の聖所にあって、モーセの律法と法的に対決することを避けて、争いの解決を人間的正義を越えた、神性の愛、神の愛の次元にまで高めた。イエスは、「あなたがたの中で罪のない者が、まずこの女に石を投げつけるがよい」と言った。彼の解決策は、教理的ではなく、霊的であった。それから、イエスはその辱められた女を、罰することなく、許して、言った、「お帰りなさい。今後はもう罪を犯さないように」(ヨハネ 8:7、11)。これは紛争解決の究極であった、なぜなら、みなの考えを、人間の不和の切り立った刃の先を越えて高め、許しとは、加護する愛あふれる神の特質であることを、教えたからである。
キリスト教科学は、今日の紛争に対して、地球規模のものでも、家庭内の小さな争いでも、全く同じ霊的解決策を適用する。その処方は、考えの中に、祈りをささやくこと、つまり神は、唯一の知性であり、心であり、どんな不和の最中にも働いている偉大な力強い真理であるということを、断言し、意識にささやくのである。このような宣言は、人間の心を無にして、周囲の雲を晴らし、神の視野の中ですでに確立されている調和の事実を明らかに示すのである。
キリストの科学は、人間の諸問題を解決する最も有効な方法であることが、実証されている。それは、傷ついた心を癒し、親子を和解させ、破綻した結婚を復活させ、視野を、限りある人間の展望を越えた領域にまで高める。
私が記者として、レバノンやサラエボなどの戦闘地帯で取材していたとき、展望を根本的に変えることが不可欠だった。私はしばしば、激しく敵対する地域で、民兵が管理する関門を通る必要があった。度々、境界線の一方から他方に移るとき、銃を構えた不機嫌な見張りに直面した。あるとき、ベイルートで、シーア派の兵士が挑戦的な形相で、9ミリのピストルを私の額に向けた。正に至近距離だった。私は恐怖心を示さず、静かな声で、(アラーの)神の善意について語った。神の加護の祈りは、この種の任務につく前に、私が必ず行なう準備の一部であり、神はこの状況を統治していることを確信していた。そして、「さて、神よ、あなたは彼を、この場からどのように救い出すのですか?」と、尋ねている自分に気づいた。ピストルに弾が込められていることは、明白だった。数秒後、野生の猫が、私の左側の、30〜40メートルのところの道を横切った。兵士は、ピストルの向きを変え、その猫を目がけて撃った。猫は驚いたが、弾は当たらなかった。そして、驚いたことには、その兵士は私を自分のテントに招き入れ、いっしょに飲もうと言って、紅茶をごちそうしてくれた。私は、彼の親切な接待を受けた。
メリー・ベーカー・エディは、The First Church of Christ, Scientist, and Miscellany, のなかで、次の力強い端的な言葉で、争いの解決についての見解を述べている:「不正は、法の不在を示す。私は、日々、諸国家が抱えるすべての問題の平和的解決を、人の兄弟愛を、偶像崇拝と不信が終わることを、またキリスト教、つまりキリストのキリスト教が成長し、確立されることを祈っている … 日々、私は祈る、『神よ、私の敵を祝福し、彼らを神の友にして、彼らが愛の喜びと平和を知るようにしてください、と』」(p. 220)。
この祈りは、多くの不穏な対決状態のなかで、私を助けてくれた、特に、私が、すべての敵は、神の友であると、心の中で宣言したとき、助けてくれた。たとえ、人が行き詰まりの打開に励んでいると信じていたにしても、神性の愛は、解決できない紛争を知らないと告げる霊的展望を持つことが、必要なのである。誰でも祈ることができる、つまり、たとえ相争う思考に直面しても、キリスト、神の永遠の平和のメッセージは、憎しみを壊し去り、人間の偏見と、強情さと、悪意を、解消することを、祈りで確認することができる。もし我々が、祈りに向かうことを、最後の手段としてではなく、最初の選択とするならば、自らに大きな益をもたらすのである。