私たちは、単に何かしら争いが存在するということだけで、失敗を予想してしまう誘惑にかかりやすいのです。私は、これまで平和を構築する仕事に携わってきて、紛争状態のなかで建設的にことを進めた結果、大きな成果が得られることを幾度も目撃してきました。しかし、それでも、私個人に直接かかわる紛争に直面すると、大変苦しんでしまうのです。私は屈服してしまったり、逃げてしまったりして、それを避けようとしたり、あるいは、自分の主張を堅固に守って勝利しようとしたりします。しかし、厳しい経験を通して、このいずれの行動も、つまり、逃げることも、闘うことも、健全で持続的な解決には導かないことを学びました。
聖パウロのローマ人への言葉は、紛争が必ずしも破壊的であるとは限らず、大いなる飛躍台になり得ること、むしろ、なるべきことを、私に教えてくれ、感動を覚えています。 「神は、神を愛する者たち、すなわち、ご計画に従って召された者たちと共に働いて、万事を益となるようにして下さることを、わたしたちは知っている」(ローマ8:28)。パウロは、悪も、神の意志を実現する一つの道であるとして、悪を認めてはいなかったと、私は認識しています。そうではなく、神は私たちのために善を存分に備えていると、パウロは確信していました。パウロは、神の国には、善が不在であるとか、善が働かないような場はないと、理解していました。この理解が深まることにより、私は危険が迫っていると思われる状況のなかで、神が、関係者すべてに備えている恵みを、探し求める姿勢を保つことができました。
逃げるか、闘うか、という反応を乗り越える第一歩は、自分の目的を神の目的と一つにすること、すべての行動が、神の求めに促されたものにすることだと認識しました。目的をこのように聖なるものとすることは、一回限りの行動ではないのです。神の計画に耳を傾け、識別し、信頼し、応えるために捧げる、絶えざる祈りに根ざした経過なのです。この神の計画は、完璧であり、その完成のために必要なすべての要素を包含しています。この計画が展開されるときに、私たちが直面するすべての状況は、恵みをもたらすことを、信頼していることができます。本誌の創刊者、メリー・ベーカー・エディは、「…進歩は神の法則である。そして、神の法則は、わたしたちが確かに成就できることのみをわたしたちに要求するのである」(『科学と健康』、p.233)と述べています。
私は国際平和を築くために活動するある財団を運営しています。過去1年半にわたって、11年に及ぶ内戦で荒廃した西アフリカの国、シエラレオネで、人々や地域社会が、和解し、国家再建に向かう計画を、支援するために働いてきました。この仕事をしていて、私は、驚くべき謝罪と許しの実例を目撃してきましたが、それは、一般の人々の示す勇気と慈しみ、また、想像を絶する最悪の人間的屈辱や損失を超越する、回復力と実行力を照らし出してくれました。戦闘のなかで手足を失った人々が、自分たちを不具者にした兵士たちを許したのです。元反乱兵であった人たちが、村々を焼きはらったことを告白し、地域社会に再び迎え入れられ、許されているのです。そして、これらの人々が、村の再建に立派な役割を果たしているのです。地域社会が、再び一つとなって、一体感をもって再生しているのを見て、私は畏敬の念に打たれました。すべての事が、共に働いて、万事を益となるようにしていることを、目の当たりにしてきたのです。
このような回復力と、許しの力を目撃して、私は、新たな決意で自らも反省して、平和構築に対する私自身の基準を高めなければなりませんでした。そして、この決意を実行しなければなりませんでした。
「もしあなたが、許しに焦点を置いた企画を進めているのなら、あなた自身が許しを実践するという挑戦を受けることに、きっとなりますよ」と、ある友人が言いました。そのとき、私は彼女の意見を一笑に付してしまいましたが、それが現実のものとなったのです。私の財団の別の企画で、許しと和解に関わるものがあり、その企画を支援してくれている業者との間で不和が起こったのです。一度は、早期に解消されたのですが、それが再燃し、拡大して、あっという間に、企画全体を揺るがし、脅かすものとなりました。
この事態について祈っていると、関係者すべてがどれほど献身してきたか、そしてこの企画を支えるために私たち一同がどれだけ犠牲を払ってきたかを認識しました。私は、これらの意見の相違を解決できると確信していました。神が、それまで、私たちの一つ一つの歩みを導いてきたことを、見てきたからです。
しかし、私の仲裁のための最善の努力は、成功しませんでした(そして、その時点においては、私がそのために捧げた祈りもまた、成功しなかったように思われました)。この紛争は拡大し、請負業者は企画そのものを乗っ取って、私たちの権限を奪おうとしていました。これは、企画の高潔さを汚し、私の財団の信頼を失わせ、そして、そのとき非常にデリケートな段階で、和解の交渉をしていた当事者たちを、傷つける可能性があると思いました。私は、不安と、この企画に対する責任感にさいなまれ、圧倒され、そしてそれ以上に、この企画が利益を代表している人々に及ぼす影響について考え、苦しみました。そして、突然、私は、本格的な法廷闘争に巻き込まれていることを知ったのです。
私は自分にできる最も大切なことは、神の指示に耳を傾け、誠実にそれに従うことであることを承知していました。それでも、考えを静め、相手の行動に憤慨して高ぶった感情を乗り越え、そして、それらによって起こるかもしれない結果に対する不安を乗り越えることは、なかなかできませんでした。
そんなとき、詩篇の作者の次の言葉が、私を目覚めさせてくれました:「わたしの目を開いて、あなたのおきてのうちのくすしき事を見させてください」(詩篇119:18)。私は、キリスト教科学の実践士に、私の考えや努力を支えてくれるように依頼しました。そしてその後で、自分の仕事は、紛争のなかで法の働きをどのように自分に有利に動かすかを考え出すことではないということに、気づきました。むしろ、私の仕事は、人生は人間の意志によって支配されるものではなく(私の人生であれ、誰の人生であれ)、常に働いている宇宙全体を支配している神性原理に支配されていることを、もっと十分に知り、感じ、証明することだったのです。神の宇宙に、2種類の人が存在するはずはないのです、つまり、神の声に応える人と、応えない人、つまり、異なった規範に基づいて行動する人々が、存在するはずはないのです。
私は、パウロの約束、「神を愛する者たち、すなわち、この計画に従って召された者たちと共に働いて、万事を益となるようにして下さること」を思い出しました、そして、この認識が、紛争の行方に対する不安から、私を解放してくれました。一歩一歩、前進しよう、そして、その時々に必要なものは示されることを信頼していればよいと感じたのです。自分の動機を清め、また、神がどのように既に善を実らせてくださったか、その方法に感謝していると、今後の過程で、たとえ何が起ころうとも、神は、前進しようとする考えの一つ一つが展開してゆくように、守り、支える、ということを、ますます明確に知ることができました。
私は直ぐに解決されるように願うことを止めるべきであることに気づき、また、こんな紛争が起こっていることは、自分が平和を築くために働く者として、またキリスト教科学者として、失敗していることを示している、という考えを捨てなければならないことに気づきました。問題解決を私個人で実現するという自己満足を捨て、紛争を調停したいという願いを進んで捨てること、そして、神性の真理が働いていることを信頼して、示されるべきことは示され、関係者すべてが聞いて理解できる方法で、語られるということを信頼しなければなりませんでした。メリー・ベーカー・エディの言葉に従って、「もはや肉体について戦うことはなく、わたしたちの神の豊かさを喜ぶ」(『科学と健康』、p.140)ことを決意したのです。
恐れに屈しないことから前進して、敵を愛せよ」(ルカ 6:27)という聖書の勧告に積極的に応えるため、私は、立ち上がらなければなりませんでした。これは、私にとって、この企画を葬り去ろうとしていると思われる人々のためにも、祈るということでした。私の祈りは、他の人々を変えようとするものではあり得ませんでした。しかし、自分がその人々について抱いている考え方を変えることができました。それは、つまり、神が彼らを見るように、私も彼らを見ることであって、彼らを、私的な計画を追求している我意の強い人間としてではなく、むしろ神の国の市民として、従って、私と同じように、神の国の法則に支配されている人として、見るということでした。私は、調和の神性の法則が存在し、すべての人に語りかけ、すべての人を支配していることを、より明確に理解できるように祈り続けました。
この法廷闘争は何カ月も続き、状況がさっぱり進展しないように見えても、私は落胆せず、自分のなかで、霊的深みが、祈りと忍耐を育ててくれていることを、尊く感じていました。取り組むべき複数の問題が表面化して、それらに対処したことが、企画の基盤を以前より強固なものにしてくれました。私は、現実であれ、想像上のことであれ、脅しにおびえない能力を培い、そして、神が私に告げている正しいことを、もっと一貫して、また確信をもって聞き、そしてそれ以外のことを知る必要がないことを、認識できるようになりました。
相手のグループは、訴訟を延々と長引かせることで脅して、私には不当と思われる要求を引き続き突きつけてきました。あるとき、脅迫感を覚え、また早く解決して、企画を進めたいという一心で、幾つかの重要項目で、妥協してしまいそうになっていました。神の指示を求めて祈ったところ、次の文章に出会いました:
「キリスト教科学は、誤りには真理をもって、死には生命をもって、憎しみには愛をもって、対決する、こうして、そして、こうしてのみ、悪に打ち勝ち、病を癒すのである。しかし、頑固な罪人は、この偉大な真理を見ることを拒む、或いはそれを認めることを拒む、なぜなら、正義においても、また慈しみにおいても、神が愛であることを知らないからである」。
「罪や罪人との闘いにおいて、それらの求めに応じることを止め、私たちが正しいと知ることに固執し、それに基づいて行動していると、見せかけの、あるいは自己満足している心は、高められる用意がないため、反抗する、また、私たちの最善の動機を誤解する、そして、それを不親切と呼ぶ。しかし、これは十字架なのである。それを取り上げなさい、それは勝利を勝ち取る、そして、私たちの偉大な模範を示すものの心をもって、祈りなさい:『父よ、彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのか、わからずにいるのです』」(メリー・ベーカー・エディ、 The First Church of Christ, Scientist, and Miscellany, p. 180)。
私は答えを得ました。たとえ相手が否定的に反応することが予想されても、倫理的であり、公正であると思う解決策を、明確に守らなければならないということでした。私は、相手の反応を想像して、恐れる必要などなかったのです。そこで私は心静かに、自分の信ずるところを述べて、明確に線を引きました。すると、驚いたことに、相手方がそれを受け入れたのです!
この解決を与えられ、私は神に感謝しました。しかし、それ以上に、一つの神のみが働いていることを更に十分に、一歩一歩示されたことに対して感謝しました、しかも、敗北に脅かされながらも、この心が支配していることを信頼することができることを学んだことに感謝しています。
人生が神に導かれるように委ねる、すなわち、神の「ご計画に従って召された」ように委ねると、全ての企画、すべての活動において、癒しがもたらされる機会が沢山与えられるのです。神の計画は、それを達成するために必要な全ての要素を含んでおり、私たちは、たとえ混乱の中を歩んでいても、この事実の中に宿る権利があるのです。