2009年の1月、キリスト教科学を受け入れていない私の妻は、風邪の治療を受けるため開業医を訪れたが、血液検査をした際に、AFPの数値が異常に高いと言われました。妻は、肝臓の専門医に診てもらうことにしました。4月初め、肝臓専門医を訪ね、再び血液検査を受けたところ、肝臓にガンができている可能性が非常に高いと診断され、神戸の中央病院を紹介されました。4日間の検査入院の結果、肝臓の上部に小さなガンがあるとの診断が下されました。医師は、私、妻、その姉の3人を呼んで説明し、手術以外には治療法がないと言いました。医師はまた、この手術には危険が伴うし、合併症の恐れもあると言いました。妻は、初期のガンなら、早いうちに切除したいと言い、手術を受けることを決断しました。
私は、「神が造ったすべての物を見られたところ、それは、はなはだ良かった」、という創世記 (1:31) の記述を思い出し、神はすべてを善に創造したこと、また、『科学と健康』には、神は、罪・病気・死を創造しなかったと書かれていることを考えました。それでは、なぜ、妻が肝臓ガンにかかり得るだろうか? 私は、妻は決して肝臓疾患ではない、肝臓ガンでもないと、心の中で繰り返し確認していました。私は、これは祈りによって必ず癒されることを確信していました。しかし、同時に、妻は、大きなリスクを負って、この非常に危険とされる手術を受けるという現実について、思いめぐらしました。そのとき、聖書の言葉、「イエスが …, 生まれつきの盲人を見られた。弟子たちはイエスに尋ねて言った、『先生、この人が生まれつき盲人なのは、だれが罪を犯したためですか。本人ですか、それともその両親ですか』。すると、イエスは答えられた、だれが罪を犯したのでもなく、ただ神のみわざが、彼の上に現れるためである」(ヨハネ、9:1~3参照)。この聖句は、盲人が癒されたのは、神のわざが現れたためであることを示唆していました。自分の霊的思考が高められてゆくうちに、神の現存と愛が示されるのだという理解に達しました。その時、私は、妻の勇気ある決断を尊重し、同意することができました。
おりしも、キリスト教科学の実践士が、京都小教会に来られました。お会いし、挨拶したとき、実践士に、妻のために祈って欲しいとお願いしようと思いました。しかし、次の瞬間、キリスト・イエスの次の言葉を、確信したのです:「よく聞いておくがよい。だれでもこの山に、動き出して、海の中にはいれと言い、その言ったことは必ず成ると、心に疑わないで信じるなら、そのとおりに成るであろう。そこで、あなたがたに言うが、なんでも祈り求めることは、すでにかなえられたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになるであろう」(マルコ、11:23~24)。
自分の祈りの効力に疑いを持つ理由はありませんでした。妻はガンではなく、肝臓疾患でもない、なぜなら神は、すべてを善に創造した、それゆえ神は罪・病気・死を創造されなかった、ということを確信し、私は、誰にも頼まずに、自分で祈ることを決意しました。
5月半ば、妻は、手術の2日前に入院しました。私は、妻は「神の映像、また似姿に造られている」ことを確信して祈りつづけ、また、「人は、罪を犯すことも、病気になることも、死ぬこともできない」(『科学と健康』, p. 475)ことを知っていました。
手術の朝、妻に、手術が無事終わることを祈っているからと言ったところ、妻はとても冷静で、少しの動揺も、不安感ももっていないことを見て、安心しました。手術は3時間ほどかかると言われていました。妻が午前9時半に手術室に入ってから、私は、エディ夫人の著書『科学と健康』の「祈り」の章と「真理の足跡」の章を熟考しながら精読していました。
手術は予定より長くかかりましたが、終了後すぐに、外科医が、手術の結果を説明しますといい、控室に案内されました。外科医は、私と妻の姉が席に着くとすぐ、摘出した肝臓の一部を見せ、「私は長年外科医を務めてきたが、こんなことは初めてです、ガンらしいものは何もありませんでした」と言いました。これを聞いて、私は、神のわざが現れたことを知り、深く感動しました。そして、神の現存、神の慈しみ深い愛に触れたことを実感し、神を賛美し、神に感謝しました。
手術のあと、妻は3時間ほど集中治療室に留められ、看護師は、血圧が異常に低いために集中治療室から出せないと言いました。そのとき、神が私に、『科学と健康』の勉強、そして祈りの時間を与えてくださったのだと悟り、病室に帰って、早速『科学と健康』の「存在の科学」の章を読み通しました。そしてイエスでさえ、度々、夜どおし祈ったことを思い出し、私たちはそれ以上に祈らなければならないことを思い、祈りつづけました。
朝方、目覚めると、何か霧のような中に淡い光がさし、体が軽くなって、宙に浮いたような気持の良さを覚え、不思議な感じでした。その時、ああ、私も妻も神の懐の中におるのだと、神の現存と愛を感じ、何ともいえない安堵を覚えました。そして、手術前に妻から言われていた、家の雑用を思い出して、家に一たん戻りました。妻に言われていたことを全て済ませ、午前10時の面会時間前に病院に戻りました。集中治療室に入ると、看護師たちが妻を病室に戻す準備をしていました。妻から嬉しそうに「おはよう」と普段通りに挨拶され、私は喜びの極みを感じ、また神への深い感謝の念がこみ上げてくるのを感じました。
妻は、術後4日目には病院の中で歩き始めていました。間もなく退院して、家に帰るや、趣味のガーデニングに興じ、大手術の後とは思えないような元気一杯の様子で、私自身もいい知れぬ幸せに満たされました。医師は薬の処方を一切しませんでした。
神への畏敬と共に、心から神に限りない感謝を捧げます。