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消えていた肝臓ガン

キリスト教科学さきがけ』2011年01月 1日号より

Christian Science Sentinel, October 25, 2010


2009年の1月、キリスト教科学を受け入れていない私の妻は、風邪の治療を受けるため開業医を訪れたが、血液検査をした際に、AFPの数値が異常に高いと言われました。妻は、肝臓の専門医に診てもらうことにしました。4月初め、肝臓専門医を訪ね、再び血液検査を受けたところ、肝臓にガンができている可能性が非常に高いと診断され、神戸の中央病院を紹介されました。4日間の検査入院の結果、肝臓の上部に小さなガンがあるとの診断が下されました。医師は、私、妻、その姉の3人を呼んで説明し、手術以外には治療法がないと言いました。医師はまた、この手術には危険が伴うし、合併症の恐れもあると言いました。妻は、初期のガンなら、早いうちに切除したいと言い、手術を受けることを決断しました。

私は、「が造ったすべての物を見られたところ、それは、はなはだ良かった」、という創世記 (1:31) の記述を思い出し、はすべてを善に創造したこと、また、『科学と健康』には、は、罪・病気・死を創造しなかったと書かれていることを考えました。それでは、なぜ、妻が肝臓ガンにかかり得るだろうか? 私は、妻は決して肝臓疾患ではない、肝臓ガンでもないと、心の中で繰り返し確認していました。私は、これは祈りによって必ず癒されることを確信していました。しかし、同時に、妻は、大きなリスクを負って、この非常に危険とされる手術を受けるという現実について、思いめぐらしました。そのとき、聖書の言葉、「イエスが …, 生まれつきの盲人を見られた。弟子たちはイエスに尋ねて言った、『先生、この人が生まれつき盲人なのは、だれが罪を犯したためですか。本人ですか、それともその両親ですか』。すると、イエスは答えられた、だれが罪を犯したのでもなく、ただのみわざが、彼の上に現れるためである」(ヨハネ、9:1~3参照)。この聖句は、盲人が癒されたのは、のわざが現れたためであることを示唆していました。自分の霊的思考が高められてゆくうちに、の現存と愛が示されるのだという理解に達しました。その時、私は、妻の勇気ある決断を尊重し、同意することができました。

おりしも、キリスト教科学の実践士が、京都小教会に来られました。お会いし、挨拶したとき、実践士に、妻のために祈って欲しいとお願いしようと思いました。しかし、次の瞬間、キリスト・イエスの次の言葉を、確信したのです:「よく聞いておくがよい。だれでもこの山に、動き出して、海の中にはいれと言い、その言ったことは必ず成ると、心に疑わないで信じるなら、そのとおりに成るであろう。そこで、あなたがたに言うが、なんでも祈り求めることは、すでにかなえられたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになるであろう」(マルコ、11:23~24)。

自分の祈りの効力に疑いを持つ理由はありませんでした。妻はガンではなく、肝臓疾患でもない、なぜならは、すべてを善に創造した、それゆえは罪・病気・死を創造されなかった、ということを確信し、私は、誰にも頼まずに、自分で祈ることを決意しました。

5月半ば、妻は、手術の2日前に入院しました。私は、妻は「の映像、また似姿に造られている」ことを確信して祈りつづけ、また、「人は、罪を犯すことも、病気になることも、死ぬこともできない」(『科学と健康』, p. 475)ことを知っていました。

手術の朝、妻に、手術が無事終わることを祈っているからと言ったところ、妻はとても冷静で、少しの動揺も、不安感ももっていないことを見て、安心しました。手術は3時間ほどかかると言われていました。妻が午前9時半に手術室に入ってから、私は、エディ夫人の著書『科学と健康』の「祈り」の章と「真理の足跡」の章を熟考しながら精読していました。

手術は予定より長くかかりましたが、終了後すぐに、外科医が、手術の結果を説明しますといい、控室に案内されました。外科医は、私と妻の姉が席に着くとすぐ、摘出した肝臓の一部を見せ、「私は長年外科医を務めてきたが、こんなことは初めてです、ガンらしいものは何もありませんでした」と言いました。これを聞いて、私は、のわざが現れたことを知り、深く感動しました。そして、の現存、の慈しみ深い愛に触れたことを実感し、を賛美し、に感謝しました。

手術のあと、妻は3時間ほど集中治療室に留められ、看護師は、血圧が異常に低いために集中治療室から出せないと言いました。そのとき、が私に、『科学と健康』の勉強、そして祈りの時間を与えてくださったのだと悟り、病室に帰って、早速『科学と健康』の「存在の科学」の章を読み通しました。そしてイエスでさえ、度々、夜どおし祈ったことを思い出し、私たちはそれ以上に祈らなければならないことを思い、祈りつづけました。

朝方、目覚めると、何か霧のような中に淡い光がさし、体が軽くなって、宙に浮いたような気持の良さを覚え、不思議な感じでした。その時、ああ、私も妻もの懐の中におるのだと、の現存と愛を感じ、何ともいえない安堵を覚えました。そして、手術前に妻から言われていた、家の雑用を思い出して、家に一たん戻りました。妻に言われていたことを全て済ませ、午前10時の面会時間前に病院に戻りました。集中治療室に入ると、看護師たちが妻を病室に戻す準備をしていました。妻から嬉しそうに「おはよう」と普段通りに挨拶され、私は喜びの極みを感じ、またへの深い感謝の念がこみ上げてくるのを感じました。

妻は、術後4日目には病院の中で歩き始めていました。間もなく退院して、家に帰るや、趣味のガーデニングに興じ、大手術の後とは思えないような元気一杯の様子で、私自身もいい知れぬ幸せに満たされました。医師は薬の処方を一切しませんでした。

への畏敬と共に、心からに限りない感謝を捧げます。

『さきがけ』の使命

1903年に、メリー・ベーカー・エディは、『キリスト教科学さきがけ』を創刊しました。その目的は、「真理の普遍的活動と有用性を宣言する」ことでした。ある辞書によると、『さきがけ』定義は「先発の使者」(先触れ、先駆け)ー 後に起こる事が近づいていることを告げるために先立って送られる者、使者」であり、『さきがけ』という名称に重要な意味を与えています。さらにまた、この定義は、私たちの義務を指し示しています。それは私たち一人一人に課せられた義務であって、私たちには、私たちの『さきがけ』がその責務を十分に果たしているか見届ける義務があるのです。この責務はキリストと不可分であって、まず初めに、イエスが、「全世界に出て行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えよ」(マルコ 16:15)と述べて、表明したものでした。

Mary Sands Lee (メリー・サンズ・リー)、Christian Science Sentinel, 1956年 7月 7日

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