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メリー・ベーカー・エディの模範に啓発された人生

研究とインスピレーション

キリスト教科学さきがけ』2011年08月 1日号より

The Christian Science Journal, April 2011


母教会の記録文書資料部で働き始めたとき、私はメリー・ベーカー・エディの生涯とその業績を研究する中で出会った歴史資料から、自分がどれほど多大な影響を受けることになるか、予想もしていませんでした。文書資料は、エディ夫人の高潔さとキリスト教精神に満ち満ちていました。

このキリスト教科学の指導者は、弟子たちに課した以上に、自分自身に対し厳格な規律を課していました。彼女には、二重基準などというものはありませんでした。つまり、彼女は、他人が働いているとき楽をすることなく、厳しい事態の前に責務を放棄することなく、滅びる心の暗示で瞼が重くなることも許さず、自らを神性の法則に従わせる断固たる決意のもとにありました。生涯を通じて貫かれたその高潔さに、今なお、私は啓発されています。

記録文書資料部で働き始めて1年ほど経ったある金曜日の晩、私は、激しい腹痛に襲われました。献身的なキリスト教科学実践士が私のために祈り、霊的に支えてくださいましたが、日曜の明け方、痛みは耐えがたく感じられました。そのとき、私は、エディ夫人がキリスト教科学の大目的を樹立するために、どれほどの犠牲を払ったか、迫害、窮乏、肉体的苦痛に抵抗するために、霊的力に頼ったかについて考え始めたのです。そのような彼女の無私の不屈の忍耐力を考えるなら、私もあと1時間、祈りに捧げられるはずではないか、と自問しました。そして、私は祈りました。1時間経つと、またもう1時間、祈りに専念し、そしてまた、と続けたのです。

午後早々、痛みは消えてしまいました。私は癒されたのです。やせ我慢ではありません。意思の力が癒すことはないのです。むしろ私はこの時間を、の全能の善意が、肉体のもろい苦情を無効にすることを、より良く理解するために費やしたのです。

仕事を通じて史的文書に親しむにつれ、エディ夫人が書簡の中で、許すこと、謙虚さ、喜びなどのキリスト教の資質を、非常に頻繁に強調していることに気づき、驚きました。実は、なにか事態に対処するとき、彼女は、形而上学的な論文を書いていたのではないかと,思っていたのですが、彼女はむしろ、キリスト的美徳を更に一貫して生きることを繰り返し求めていたことを知りました。もちろん、書簡には形而上学的な指示も含まれています。しかし、彼女が忍耐や自制といった資質をこれほど強調しているということは、これらの美徳は、彼女が形而上学を実際に生きていたことの明白な現れであって、それが惨めな状況を、霊的再生と進歩に変える適性であることを示してくれました。

エディ夫人のキリスト教信仰の中核は、キリストを通して得る完全な救い、肉体的、また道徳的な救いです。彼女の妥協を許さない一神論は、人間の心が、実行することも、癒し手であることも拒否して、実証は、神性のに基づくものであるとしています。彼女は『科学と健康ー付聖書の鍵』に「真理が働きをするのである、そこで、あなたは自分の実証する神性原理を理解し、またその原理に従わなければならない」(p.456) と書いています。

この文は、私が、癒しの責任は、神性原理ではなく、自分自身にあるという考えの誘惑にかかりそうになったとき、気付かせてくれ、けん責してくれるのです。腕を複雑骨折したとき、このことが明白に示されました。ギブスを外してくれた整形外科医に、今後、腕を正常に動かせなくなるので、理学療法を開始するよう告げられました。

しかし、私は祈りによる癒しを求めました。イエスの言葉、「あなたがたは…真理を知るであろう。そして真理は、あなたがたに自由を得させるであろう」(ヨハネ8:32)、に注目しました。イエスは、あなたが真理を知ることが、あなたを自由にするのではなく、真理そのものが、あなたを自由にすると言っているのだと考えました。私がなすべきことは、生ける真理との関係をもっと現実のものとして受け入れることであって、私が知ることではなく、真理が癒すのだということを認識しました。これに目覚めて間もなく、そして、ギブスを外した1週間後、痛めた骨のあたりでパチンと大きな音がしました。すると、腕がまっすぐになり、それ以来ずっと腕は正常で、自由に使っています。

これらの史料を学んで、私は、キリスト教科学の実践士の努めは、誰かが霊的助けを求めてくるのを待っているものではないことを知りました。むしろ、日々の経験が、キリスト教科学の実証を促す実験室なのです。どんな人間生活の細部も、の支配下に置かれることから逃れることはできないのです。

高潔さ、キリスト教精神、一神論、そして、生活の細部においてまでキリスト教科学の実証を自らに課したことが、メリー・ベーカー・エディの精神の純粋さと強さの証拠であり、それが、彼女に、に与えられた無比の使命の達成を可能にしたのです。これらの資質は、エディ夫人の出版物の記述に浸透していますが、未出版の著作の中にも、非常に頻繁に示されており、これが公私にわたり彼女の一貫した思考であったことを示され、私は、これらの資質について、さらに深く考えるようになりました。私は、今なお、このことに感謝しています。


スティーブン・R・ハワードは、マサチューセッツ州、チェスナットヒルにあるLongyear Museumの主任学芸員を務め、元母教会上級記録文書係であった。ハワード氏は、日本に通算8年住み、最初は学生として、後には日本企業で働き、また東京教会の会員であった。

『さきがけ』の使命

1903年に、メリー・ベーカー・エディは、『キリスト教科学さきがけ』を創刊しました。その目的は、「真理の普遍的活動と有用性を宣言する」ことでした。ある辞書によると、『さきがけ』定義は「先発の使者」(先触れ、先駆け)ー 後に起こる事が近づいていることを告げるために先立って送られる者、使者」であり、『さきがけ』という名称に重要な意味を与えています。さらにまた、この定義は、私たちの義務を指し示しています。それは私たち一人一人に課せられた義務であって、私たちには、私たちの『さきがけ』がその責務を十分に果たしているか見届ける義務があるのです。この責務はキリストと不可分であって、まず初めに、イエスが、「全世界に出て行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えよ」(マルコ 16:15)と述べて、表明したものでした。

Mary Sands Lee (メリー・サンズ・リー)、Christian Science Sentinel, 1956年 7月 7日

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