教会の財政的問題の解決は、会員一人一人に、また彼らの預貯金額に、依存するものではないことを、私は理解するようになった。供給は、神、神性原理から、直接来るのであることを知ることができるように祈っていると、私たちの「眠れる理解を…霊的理念の会得へと…」(『科学と健康』p. 583) 目覚めさせてくれる。私たちは、豊富な資源を、本当に期待することができるのである。
福音書には、イエスが、パン5つと、魚2匹で、5千人もの人々に食事を与えたことが記されている。人間的な見地に立つと、これは奇跡のように思われるが、神性原理の法則によるならば、これは単に、供給の源は人間にあるのでなく、また物質にあるのでもないことを、説明しているにすぎない。神が無尽蔵の供給の源なのである。供給が、どのようにして、またどこから来るのか、推測する必要はない。
さらに重要なことは、私たちは祈りを通して、創造者は、彼の理念がそれぞれ何を必要としているかを知っており、それを供給することを、認識できるということである。かつて、私が所属していた京都の小教会で、屋根の修復が必要となった。費用は、その時の教会の予算の30倍の額であった。屋根の痛みはひどく、屋根の下の板が見えている状態だった。近所では、屋根の下から板がのぞいている教会として知られていた。長いあいだ、教会は屋根の修復に必要なお金はとても用意できないと、みな信じていた。修理の費用について考えるだけでも恐ろしかった。しかし、ある会員集会で、会員たちは、たとえ人間の目には不可能であると思われても、神には不可能なことはない、ということで意見が一致した。そして一年間、会員たちは輪番性で祈り続けた。
すると、予想もしていなかったことが次々と起こったのである。ある日、郵便局からはがきが届いて、郵便貯金が満期になったことを知らせてきた。何年も前に、会員が郵便貯金をしていたのだが、当時の会員は誰もそのことを知らなかった。また、しばらくすると、別の資金調達の申込みをするように導かれたところ、驚いたことに、多額のお金が寄与されたのである。私たちは祈り続け、1年後に、屋根は完全に修復された。その真新しい屋根は、神が全能であることを優しく思い起させてくれているように思われた。近所の人たちも、新しい屋根を褒めてくれた。
イエスは言っている、「ふたりまたは三人が、わたしの名によって集まっている所には、わたしもその中にいるのである」(マタイ18:20)。私たちは、キリストの名の下に教会活動に参加していると、キリストのうちに現れる神性原理の癒しの力を、より深く理解するようになる。そしてまた、このような教会活動を通して、私たちは人の本性をより純粋に、より高く、表現するようになるであろう。この人のより高い意識が、私たちの家族を、地域を、またより大きく社会全体を、照らす光となり、幸福の源となるであろう。教会とは、神を信じる人々が集うところである。しかし、教会の礎は、全てを支える全能の神、神性原理なのである。