最近、日本では「ガン難民」という言葉をよく耳にする。この言葉は、メディアにもよく表れる。これは、ガン患者で、もう治療の方法がないと医師に宣告された人たちについて使われる言葉である。
この言葉を初めて聞いたとき、一瞬、とても暗い気持ちになった。しかし、聖書を学ぶ者として、詩篇の次の言葉を思い出した:「神はわれらの避け所…である」(46:1)。そこで、すぐに次の思いが浮かんだ、「いや、誰として、避けどころのない 難民などではない。避けどころがあり、守られ、世話され、癒される所があるならば、誰も難民ではないのだ、と。また、サムエル記下には、「わが神、わが岩。わたしは彼に寄り頼む。わが盾、わが救の角、わが高きやぐら、わが避け所、わが救主。あなたはわたしを暴虐から救われる」(22:3)とある。
医学による診断が、他の何ものよりも権威と力を持つように思われることがあるかもしれない。医師の診断が、本人は言うに及ばず、家族、友人、さらに関係者みなにまで、大変な打撃を与えるようなこともあり得るのである。しかし、もし、私たちには、頼りになる、安全で、力強く、信頼できる避けどころがあるという事実に、目を向け、それを信頼したらどうだろう。実際、神は、無条件の愛であるゆえ、不治の病などというレッテルを、認め、作り出し,支えるはずがない。
昨年、キリスト教科学を長く学んでいるある男性が、奥様が、医者から受けた肝臓ガンの診断を覆すまで、どのように祈ったかについて話してくれた。すべての検査結果から、このガンの治療は手術によるしかないと言われた。彼は、創世記の第1章にある、人は、みな、男性も女性も、神の映像と似姿に創られている、そして、神が造ったすべてのものをみられたところ、それは大変良かった、という言葉を思い出した(27, 31参照 )。
そこで、彼は、今、奥様がこのような経験をしている唯一の「理由」は、神の真のそして唯一のみわざが現われるためであることに、気がついた(ヨハネ、9:1-3 参照)。奥様が手術を受けているあいだ、彼は、このことを深く考えながら『科学と健康ー付聖書の鍵』を読み続けていた。
手術が終わると、医師は家族を呼んで説明した。医者は、立ち合った人すべての予想に反し、ガンはどこにも見つからなかったと言った。彼は、これを説明することはできない、これまでこんなことを見たことがないと言ったそうである。
神が、私の友人の避け所であった。そして、彼の祈りを通して、奥様の避け所ともなったのである。この安全な場所は、人の考えが安らかに宿り、祈ることができる所であり、しかも、問題を解決するのではなく、すでにある神の、また神の創造したものの、完全性を確認する場所なのである。
キリスト教科学では、祈りは、最後の手段ではなく、最初の、そして助けを求め始めることができる確実な手段である。私たちは、どんな逆境にあるときでも、安全に守られていると感じられる特権をもっている。私たちは診断が正当であるという考えに挑戦し、祈りを通して癒しを見いだすことができるのである。
キリスト教科学の勉強は、神の国において、誰一人難民であり得ないことを見いだすように助けてくれる。なぜなら、幾世紀もの昔、詩篇に宣言されているように、「神はわれらの避け所また力である。悩める時のいと近き助けである」(46:1)からである。