テレビのニュースで、マグニチュード7.2の地震がトルコ東部のエルジシュの町を襲い、崩壊し、ヴァン地方を揺るがしたことを知るとすぐ、私は、今、祈らなければならないと思いました。トルコに住んでいますので、たとえ被災地から離れていても、被災された方々に自然に思いをはせました。
神は、風、地震、火の中にはおられず、「静かな細い声」の中にいる、という聖書のことばを思い出しました(列王上19:11, 12参照)。でも、こんな惨害の最中にあって、神の声であっても、そんなに静かで細い声では、いったい何の役に立つのだろうか、と思いました。地方テレビは各局とも、凄まじい崩壊の絶望的な映像を映しており、皮肉にならざるを得ませんでした。
しかし、私は、直ぐに、もし自分が何か役立つことをするのであれば、まず考え方を変えなければならない、ということに気づきました。私は自分に問いました。静かな細い声は、誰が聞いているのだろうか。確かなのは、救助隊員たちが、がれきの下から聞こえてくるどんな小さな生命の音にも、耳をそばだてているということでした。しかし、彼らは同時に、生存者を探すのにどこが最適な場所であるかを察知する、自らの直感の声も聞いているはずでした。彼らの直感が、過去の救助活動の経験から得た勘とともに働いて、限られた貴重な時間に、一人でも多くの命を救うことができるように、彼らを賢く導いているはずでした。
直感の根源は、神です、神性の心です。この直感を、あなたの意識に話しかける静かな細い声と呼ぶことができるでしょう。あなた以外に、誰もあなたの直感を聞くことはできません。それは、非常に静かなのですから! しかし、その声は、あなたに聞こえるほどに大きな声なのです。メリー・ベーカー・エディは、『科学と健康—付聖書の鍵』の中で、次のように書いています:「科学的な考えの『静かな細い声』は、大陸と大海を越えて、地の果てまでも届く。耳には聞こえない真理の声も、人の心には、『獅子がほえる時のよう』である。それは砂漠の中で、また恐怖の闇の中で、聞こえてくる」(p. 559)。
それでは、今、この瞬間、他に誰が、この耳には聞こえない真理のほえ声を聞いているのだろうかと考えました。刑務所の受刑者! と思ったとたん、地震の際に、刑務所の壁が崩れて200人の受刑者が逃げたと報道されました。そして、そのうちの50人が、家族と短い時間を過ごしたあと、刑務所に戻ってきたということでした。この刑務所に自ら戻った受刑者たちは、あの静かな細い声を本当に聞いたにちがいありません。その導きに耳を傾け、それに従って、真理、神性の愛が導いた通りに行動し、正しいことをしたのです。彼らは、家族を愛していますが、正しいことをしたいという願い、そしてそれが自然であることを学んでいるのです。私たちは、逃亡中の他の受刑者たちも、静かな細い声に注意を向け、自分たちや他の人たちに何も危害を与えることなく、自発的に刑務所に戻るようにと祈ることができます。神、神性の愛は、常にすべての人に話しかけています!
優しい神性の愛の静かな声は、私がこの記事を書いている、今この瞬間も、がれきの下に埋まって助けを待つ人々に語りかけています。神は彼らに、彼らを心から愛しているのだから、恐れないようにと語りかけ、慰めています。神の静かな細い声は、彼らに勇気と忍耐を与え、彼らを力づけています。詩篇の作者が約束したように、「主はその羽をもって、あなたをおおわれる。あなたはその翼の下に避け所を得るであろう」(詩篇 91:4)。すべてを愛する唯一の神は、被災地にいるすべての人たちは、がれきの下で危険な状態にあるのではなく、神の羽の下で安全に守られていることを、知っておられるのです。
私たちは、地震で被災した人たち、その家族たち、救助隊員、現地で救済にあたっている人々たちのために、祈ることができます。近くにいようと遠く離れていようと、それこそ私たちが与えることができる最高の支援です。神の静かな細い声は、地震の中にあるのではなく、神の現存と力がすべてに及ぶことを確認する、私たちの心からの祈りの中にあるのです。祈りは、事態を変え、命を救い、平和と調和を復帰させることができます。