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アレルギー症から完全に癒された

キリスト教科学さきがけ』2011年06月 1日号より

The Christian Science Journal, February 2011


私は、11年以上にわたって、毎年、家族中が親せきの家に集まるときに、アレルギー症に悩まされていた。その家には犬がいたのである。私は祈ってはいたが、かなり厳しい症状であった。だが、年一回、限られた時間のことなので、我慢して過ごすことにしていた。家族を心から愛しながらも、私はこの例年の休暇を恐れていた。

そんなとき、ある全く無関係の出来事が起きた。私は、過去において自分の忍耐力の限界を試されるように思われていた人に会うことになっていた。彼は、不満ばかり言い、自分のことしか考えず、まったく思いやりのないような人だった。

この人に会う前に、私は、に祈り、この状況を違った目で見ることができるようにしてくださいと願った。怒りっぽい自分がいやだったし、こんなつまらない考えを乗り越えてしまいたかった。

聖書の放とう息子の物語が、答えを与えてくれた。イエスは2人の兄弟について語っている。弟は自分が受けるべき遺産を父に要求し、「放蕩に身を持ちくずして」その財産を使い果たしてしまった。何もかも浪費してしまったのち、彼は、豊かな父の家のことを思い出し、帰ったところ、父は大喜びで迎え入れてくれた。しかし、兄は弟が帰ったことを知ると、ねたんで、自分はこれまでこんなによい息子であったのに、今、弟を歓迎して催しているような宴を設けてくれたことは一度もないと、父に不満を述べた。父は、兄を慰めて言った:「子よ、あなたはいつもわたしと一緒にいるし、またわたしのものは全部あなたのものだ」(ルカ15:31)。

父は、それぞれの息子に、違った方法で思いやりを示した。長男に対しては、彼の不満にもかかわらず、自分の家にあるすべてを、彼が受ける権利があることを保証した。

これは、私に、こののように私も友人に思いやりを示す必要があることを、教えてくれた。たとえ不満を聞かされたり、傷つけられたと感じても、私たちは共にの家にあって必要なものすべてを与えられており、足りないものは何もないことを、心のなかで宣言すべきであることを認識した。私がすべきことは、友人は霊的に完全であり、欠けるところのないものであることを断言して、思いやりを示すことであった。この正しい見解を得て、私は、この友人との出会いを心から楽しんだ。

この経験によって、私の意識は高められ、霊感を与えられ、アレルギーの脅威を一気に克服してしまう力を得たように感じた。その年の家族の集いのあいだ中、自分の考えに絶えず注意を払っていた。私は家族にもっと思いやりを示せるようにと祈り、自分の意識が祈りから離れないようにする力が与えられるように願った。

私は,自分はの理念であり、の映像、また似姿に造られ、の創造したものすべてと調和して生きていることを知っていた。創世記の第1章には、は地上のすべての生き物と草木を造り、それらを良しとされた、と書かれている。従って、が造ったものは、有益であり、有害なものは無いのである。家族の犬は、愛や喜びを自然に表しているのだった。草木もまた、生命と美しさを表しているのだった。が造ったものが、私と、また他の何物とも、対立するはずはなかった。私は、反発したり、私を傷つけるものがあると恐れたりしないで、メリー・ベーカー・エディが『科学と健康ー付聖書の鍵』のなかで言及している「野生の馬」のように、「喜々として風を吸っている」ことができるのだった(p. 179参照)。そこで、同様に、どこにいても、何と一緒にいても、私は、神性ののうちに生き、動き、存在しているのだと、私は断言した(使徒行伝17:28参照)。

驚くべきことが起こった。物資的な条件は何も変わっていなかったにもかかわらず、過去幾年かと比べて、9割ぐらいまで調子が改善していると感じた。そして、私は、ついに、完全な癒しへの正しい軌道上にあることを知った。

翌年の集いの時には、この新しい見解に基づき、私はもはや、苦しみをもたらす妨害を少しも恐れなかった。その一週間、私は家族の催しすべてに参加し、全く自由に、安心して、喜び楽しむことができた。

アレルギー症が戻るのではないかとの恐れに見舞われたことが一度だけあったが、それもごく短時間で克服することができた。私は、もはや、だまされることはなかった。癒しは完全であり、恐れは、私を惑わす力がないことを知っていた。これは、3年前のことであり、それ以来、アレルギーの問題はない。

なぜ、癒しにこれほど長い時間がかかったのだろうか、自問する誘惑にかかりそうになったが、そうではなかったことに気づいた。この何年来、自分が行なってきた個々の祈りが、の声を聞くように私の考えを開いてくれていたのである、つまり、私がもっと愛し、もっと忍耐強くなり、許すことができるようにしてくれたのである。一旦、心のくもの巣が取り払われるやいなや、癒しが始まったのである。

そこで、もし癒しが先延ばしになったように思われたら、勇気を出しなさい。祈りは、一つ一つすべて有効なのである。は、の愛する子である私たちが、のすべての理念を受け入れ、反応することを可能にしている。神性のは、天使をあなた方の傍らに送り、讃美歌で歌われるように、あなたがたを「慰め、守り、導く」のである(Violet Hay, Christian Science Hymnal, #9)。


『さきがけ』の使命

1903年に、メリー・ベーカー・エディは、『キリスト教科学さきがけ』を創刊しました。その目的は、「真理の普遍的活動と有用性を宣言する」ことでした。ある辞書によると、『さきがけ』定義は「先発の使者」(先触れ、先駆け)ー 後に起こる事が近づいていることを告げるために先立って送られる者、使者」であり、『さきがけ』という名称に重要な意味を与えています。さらにまた、この定義は、私たちの義務を指し示しています。それは私たち一人一人に課せられた義務であって、私たちには、私たちの『さきがけ』がその責務を十分に果たしているか見届ける義務があるのです。この責務はキリストと不可分であって、まず初めに、イエスが、「全世界に出て行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えよ」(マルコ 16:15)と述べて、表明したものでした。

Mary Sands Lee (メリー・サンズ・リー)、Christian Science Sentinel, 1956年 7月 7日

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