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編集部より

欺きから守られる

キリスト教科学さきがけ』2009年10月 1日号より

Christian Science Sentinel, 2009 年3月30日号より転載


最近、生態学者らが発表した研究によると、ある種の蝶は、赤蟻をだまして、自分の幼虫の世話をさせるという。蝶の幼虫であるいも虫は、蟻の臭いと、女王蟻の出す音をまねる、すると間もなく、いも虫は巣に招き入れられ、王族のように丁重に扱われる。働きものの蟻は、いも虫に餌を与え、いも虫の要求にはすべて応える、そして時には、自分の子らまで餌として差し出してしまうのだという。最後には、いも虫は、元の大きさの100倍ものさなぎとなるが、蟻の臭いと音はそのまま宿している。この侵入者は、その巧妙なだましの業で、次第に、赤蟻の個体数を、文字通りのみ込んでしまい、激減させてしまう。

この研究結果は、私たちの生活の中に見られる、さまざまの欺きと同様のものなのである。例えば、今日の世界の厳しい経済状態は、投資家、銀行、住宅購入者たちのどん欲さが生み出した、欺きによるものだと言われている。今、振り返って見て、どうしてこんなことになってしまったのか、どうしたら、防ぐことができたのだろうかと、人々は考えあぐねている。しかし、どん欲、利己主義、無気力などは、考えの一つずつを、受け入れ、行動に移すのか、それとも、拒否して、捨て去ってしまうのか、そこから始まるのである。これらの考えは、将来、何かしら良いことがあるのだと、約束しているように思われるかもしれない、しかし、それに同調してしまうと、私たちの心の平安はずたずたにされ、私たちの幸福と健康まで、のみ込まれてしまうのである。そして、男性も女性も生まれながらに弱点を抱えているので、それを受け入れることに同意してしまうのだという、一見、悪気のないものなのかもしれない、つまり、誰でも、簡単に欺いたり、欺かれたりしてしまうのだと、いうことなのである。

よく知られている聖書の話、ヤコブとエサウの話に、このような人生観が示されている。母親の誘いに従って、ヤコブは、兄エサウの格好をして、父親が、エサウに与えるはずだった祝福を、父親から盗む。ヤコブは、「兄エサウは、毛深い人ですが、わたしはなめらかです。おそらく父はわたしにさわってみるでしょう。そうすればわたしは父を欺く者と思われ、祝福を受けず、かえってのろいを受けるでしょう」(創世記 27:11,12)と言っている。それでも、母親の陰謀に従って、ヤコブは、兄の服を着て、腕を動物の皮でおおい,高齢で目が見えなくなっている父親を巧みに欺くのである。

このように、どん欲さにはまり、振り回された結果、ヤコブは、苦難に満ちた旅路につく。彼は、兄エサウの怒りを恐れて逃げ、殺されるかもしれないという恐怖におそわれながら身を隠し、こうして自らもまた欺きの犠牲となる。それから何年も経ったのち,彼は、自分で仕掛けたワナから逃れる道を見いだす。彼は、確かに、「祝福ではなく、かえって呪いを受ける」ことを、自分にもたらしてしまった。しかし、最後には、ヤコブは、自分本来のもの、彼の善の本性が、表面に現われ、の加護との愛は、途絶えることがないことを見いだすのである。

ヤコブの欺きは、少なくとも部分的には、物質的感覚を信用することで成立していた。ヤコブは、偽りの身分を名のるという手口を使った;彼の父親は、それを聞き、また、さわった感覚でだまされた。こうして、偽りのくもの巣が張りめぐらされたのである。キリスト•イエスの癒しと教えに基づくキリスト教科学は、実在は、物質的感覚とは全く無関係であることを明らかにしている。そして、この物質的感覚は、ただ非難することしかできないものなのである。痛み、負傷、病の証拠は、それ自体がごまかしであり、私たちがそれを養い育てたり、信じたりしなければ、私たちに何の影響も与えることはできない。感覚は、私たちの同情と、同意を得て初めて、私たちに取り入り、私たちの生活のなかで場を占めることができる。それは、善以下のものを受け入れることを認めるように、考えを誤って導こうとする。この事に関して、『科学と健康—付聖書の鍵』は、次のように忠告している:「病の兆候が最初に現われたとき、物質的感覚の証言を、神性科学で反論しなさい. . . 罪や病の主張は不法である、という確信を持ち続けて、これを追放しなさい、なぜならは罪の作者ではないと同様、病気の作者でもないことを、あなたは知っているからである」(メリー・ベーカー・エディ、p. 390)。

どんな形の欺きであれ、の力から注意を反らせ、自分が、の純粋で、正直な反映以下のものだと思わせるなら、それは不法である。私たちの生活、私たちの健康と幸福を生み出しているのは、のみ、神性の真理のみである。私たちの世界も、隣人も、家族も友だちも、安全に守られていて、善を破壊しようとするものすべてから完璧に守られていることを、認めることが非常に大切である。そして、ヤコブの例にあるように、自分の過ちを認めたとき、善は、もう既にそこに現存するのである。

エディ夫人は、次のようなメッセージをキリスト教科学者たちに書き送っている:「あなた方は、『悩みの地にある、大きな岩の陰』にあって、の基盤の上に築かれ、の力に守られているので、あなたをのみ込んでしまおうとするものから、神性の加護と愛によって、護られていることを知ることができることは、何と幸せなことであろう。の存在、力、平安が、すべての人の必要を満たし、すべての幸せを反映していることを、いつも意識に留めておいて欲しい」(Miscellaneous Writings 1883-1896, p. 263)。

たとえ、どん欲、無知、恐れ、またその他の否定的な性癖に、欺かれたにしても、私たちは、自分の家,退職金、貯金、仕事を、「のみ込もうとするもの」から守られている、なぜなら、私たちは、神性の保護のもとにあるからである。どんな必要、どんな問題があろうとも、がここに存在して、その必要を満たし,導いてくれる。どんな人でも、一番安全なところは、「悩みの地にある、大きな岩の陰」である。何ものも、この実在から、私たちの注意を反らすことはできない。そして、この事実を認識したとき、すべての人が安全に、我が家に、つまりのもとに、帰ることができるよう導かれるであろう。

『さきがけ』の使命

1903年に、メリー・ベーカー・エディは、『キリスト教科学さきがけ』を創刊しました。その目的は、「真理の普遍的活動と有用性を宣言する」ことでした。ある辞書によると、『さきがけ』定義は「先発の使者」(先触れ、先駆け)ー 後に起こる事が近づいていることを告げるために先立って送られる者、使者」であり、『さきがけ』という名称に重要な意味を与えています。さらにまた、この定義は、私たちの義務を指し示しています。それは私たち一人一人に課せられた義務であって、私たちには、私たちの『さきがけ』がその責務を十分に果たしているか見届ける義務があるのです。この責務はキリストと不可分であって、まず初めに、イエスが、「全世界に出て行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えよ」(マルコ 16:15)と述べて、表明したものでした。

Mary Sands Lee (メリー・サンズ・リー)、Christian Science Sentinel, 1956年 7月 7日

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