慈しみは、 私に、善を信じ、 神の絶えざる加護を信じることから生れる、 心の冷静さと安定について、 語ってくれる。 慈しみによって、 私たちは、人生において、 たとえどのような経済的苦境に直面しようとも、 動揺しないでいることができるのである。 慈しみは、 神が創造し維持する調和を、 絶えず認識していることにかかわり、 しかもそれは、どんな混乱に直面しているとしてもなのである。 そして、 このような確信が、 平和と癒しをもたらす。
ウェブスター大辞典の初期の版によると、 「grace」 (慈しみ) は、 「神の自由で偏らない愛と好意、 人が神から受けるあらゆる利益の源泉... 心を新たにする霊の影響」 と定義されている。 この雑誌の創立者であるメリー・ベーカー・エディは、 ある生徒に送った手紙のなかで、 キリストによる癒しについて次のように述べている: 「決して誤ることのない愛を感じなければなりません、 すなわち、 癒しが、 もはや力づくのものではなく、 「慈しみ」 であることを感じさせる、 神性の力を、完全に認識しなければならないのです。 すると、 あなたは恐れを追い払う愛を得て、 恐れが消えると、 疑いが消え、 あなたの仕事は成就するのです」 (Frank Walter Gale, We Knew Mary Baker Eddy, pp. 90-91)。 この慈しみの感覚を育てると、 財政が緊迫したときにも、 恐れを静めることを、 私は学んでいる。 私の家族は、 神の慈しみの優しさに触れて、 これまで25年のあいだ、 恵みを得てきた。
長男が生まれたとき、 我が家の財政状況は、 およそ望むべき状態とは言えなかった。 私は出産に備えて仕事を辞めていた。 そして、 出産後も家にいて育児にあたるというのが、 夫と私の願いだった。 夫一人の収入で生活していた、 しかも、 住宅購入に対する変動型金利の貸し付け金の毎月の返済額は、 上がる一方だった。 それでも、 息子の誕生は調和と優しい希望に満ちたもので、 私たちは、 神の子らはみな、 一人一人、 父母から直接に受けている供給の源泉を備えて生まれてくるということを、 静かに確信していた。
息子が誕生した直後の数週間は素晴らしかった。 ほぼ1ヶ月のあいだ、 毎日、 何かしら「贈り物」が、 戸口に、 または郵便箱に、 届いたのである。 それは、 さまざまな形で届いていた、 例えば、 払い戻し金、 食事、 赤ちゃん用品、 わずかな遺産などを含み、 その一つ一つが、 私たちの家族に対する、 神の善意と加護への信頼を強めてくれた。
その頃、 住宅ローンの返済が、 我が家の総収入の50%を越えていた。 それでも、 貯金が6ヶ月以内に無くなってしまいそうになっても、 不安を覚えたことは一度もなかったと正直に言うことができる。 自分たちが生涯頼ってきた神の優しい加護、 「決して誤ることのない愛... 恐れを追い払う愛」 が、 必要なものは必ず備えてくださるという確信を与えてくれていた。
「天使たち」という記事の中で、 メリー・ベーカー・エディは、 次のように説明している:「神はあなたに神の霊的理念を与え、 代わりに、 その理念があなたに、 日々必要なものを供給するのです。 決して、 明日のことを求めてはなりません:神性の愛が、 常に現存する助けであり、 これで充分です: そしてもしも、 あなたが決して疑うことなく待つならば、 あなたはその時その時に必要とするものをすべて得るでしょう」 (Miscellaneous Writings 1883-1896, p.307)。 そして、 正にこの通りのことが、 私たちに起きたのである。 考えが次々に示され、 驚くべき形で実現されていった。 私は家にいて働く方法を色々見いだした、 例えば、 ベビー服を考案して、 販売したり、 本の編集を手伝ったり、 出版社の仕事をしたり、 広告会社の仕事をしたりした。 また、 天使から来たように思う考えに応えて、 寝室の1つを、 しばらく住む場所が必要だった教会員に貸したりもした。 私たちの必要は、 日ごとに、 完全に満たされていた。
息子の誕生のおよそ1年後、 夫の会社が、 町の事務所を閉鎖して他の地へ移転することになった。 私たちは、 会社の移動先の町の状況を調べ、 家も探してみたが、 誠実に祈った結果、 引っ越すことが私たちには正しくないと感じられた。 会社は営業を止め、 夫は解雇金として、 1か月分の給料をもらって会社を辞めた。
私は、 イエスが弟子たちに言ったことを思い起こしていた: 「わたしがきたのは、 羊に命を得させ、 豊かに得させるためである」 (ヨハネ 10:10)。 この約束により、 父-母神は、 子らが、 かろうじて生きるようなことを意図してはいないことを理解した。
私は、 次の聖句が大好きである: 「神はあなたがたにあらゆる恵みを豊かに与え、 あなたがたを常にすべてのことに満ち足らせ、 すべての良いわざに富ませる力のあるかたなのである」 (第2コリント 9:8)。 どんな試練に直面しても、 私たちがそれに立ち向かい、 克服できるのは、 私たちの能力ではなく、 神の力であること、 神の豊かな慈しみであることを悟ることは、 非常に力強い励ましとなる。 私たちが地上のどこにいようとも、 状況がどれほど困難で、 不快なもののように見えようとも、 神の豊かな慈しみは現存し、 私たちを必要なことに対峙させ、 達成させてくれる。
キリスト教科学は、 私たち一人一人が、 神の反映であると説明する。 神が原型であり、 私たちは神性の愛の似姿である。 もし神が善意に満ちあふれているのであれば、 私たちも満ちあふれていなければならない。 私にとって、 豊かさに満ちあふれているということは、 エネルギーに満ちあふれた豊かさを表現することであり、 その考えは、 「私たちもまた神の子である」 という事実から、 直接にきているのである。 私は、 神の子たちが、 霊的理念として、 無限の心から生じ、 神の恵みを完全に受けて、 生命、 喜び、 目的に満ち満ちているようすを、 目に浮かべては、 いつもにっこりする。
私は、 夫の謙虚さに、 いつも感謝している。 彼は、 その地位が理想的とは言えなくとも、 また短期のものであって、 就ける仕事に就いてくれた。 彼は私たちの家庭において、 また家族にとって、 神の果たす夫の役割を見事に果たし続けてくれた。 家族の収入が途絶えたことはなく、 神の備えを信頼する日々が、 彼を今日の仕事に導き、 この仕事について、 13年になる。
あの祈りの末、 住んでいる家から動かないという決断をして間もなく、 私は会員であるキリスト教科学の支教会の第1朗読者に選出された。 この3年を任期とする仕事は、 毎週の礼拝の準備のため、 たくさんの霊的鍛錬と祈りを必要としたが、 それが、 私に、 家族に、 そして地域社会に、 豊かな恵みをもたらしてくれた。 そして、 生活の質が向上したことは言うまでもない! 今、 私の生活は、 日々勉強し、 そして、 毎週、 教会礼拝で読まれている本に示されているイエスの寛大な人生を、 わずかながらでも表現している: 「イエスは彼の人間生活の絶大さによって、 神性の生命を実証した。 彼の純粋な愛情の広大さから、 彼は愛を定義した。 真理の豊かさをもって、 彼は誤りを克服した」 (『科学と健康』、 p.54)。
若かった頃の家族の体験を振り返ってみて、 神の慈しみがあらゆる局面で働いていたことが分かるのである、 経済不況の多様な現れ、 多額の住宅ローン、 また、 厳しい就職状況にもかかわらずである。 生き生きとした信頼を通して、 霊感あふれる考えが豊かに湧いて、 私たちの供給が充分に満たされてきたことが、 思い出される。 そしてそれは、 私たちが特にそのような恵みを受けるに値していたためではなく、 『神の贈り物』 として私たちが自然に受けていたものである。
最近、 経済や求職市場の収縮について、 また 「耐乏生活」 を強いられる人々の話について、 読んだり、 聞いたりするとき、 今こそ、 神のあふれるほどの慈しみを思い起こす時なのだと思う。 神は、 常に、 任務を果たす用意がある。 それに対するどんな抵抗力も、 あなたの意識に、 霊的考えが訪れ、 展開されてゆくことを、 抑えることはできない、 また、 それがもたらす、 あなたの前進の権利を抑えることもできない。