あれは、 サウロでしょうか、 それともパウロでしょうか。
あるパウロという、 献身的な、 そして優秀な会員になり得る人が、 教会の扉をたたいているとき、 常に私たちがそれに気づくとは限りません。 もし、 そこに現れたのが、 あるサウロという、 キリスト者同胞とは非常に異なる評判の人物であったとしたら、 あなたは彼を閉め出してしまうかもしれません。 そうした方が、 教会にとっても安全でしょう。 と、 私たちはそのように考えてしまうのです。 しかし、 もし、 パウロがキリストの使徒となるように助けた初期の使徒たちが、 その霊的な呼びかけに応えず、 彼を助けていなかったなら、 教会も全世界も多くを失っていたことでしょう。
サウロが、 イエス・キリストの献身的な使徒となって、 名前をパウロと改める前、 サウロは、 パリサイ人であり、 しかも、 キリスト教徒たちを激しく追い、 容赦なく迫害することで知られていました。 彼は、 キリスト教のすぐれた説教者であり、 癒し手であったステパノを、 石打ちにした事件にも関わっていました。 (使徒行伝 6:8、 22:20 参照)。 ステパノの伝道活動が、 モーセの律法と聖所の礼拝に対する冒涜であると考えたユダヤ教の人々が、 サウロの目前でステパノを石で打って死なせました。 サウロは、 それを黙認していたのです (使徒行伝 7:54~8:1 参照)。
サウロが、 後に、 キリストの献身的な弟子となるばかりでなく、 キリスト教の偉大なる指導者となり、 この世に生を受けた人の中で最も著名なキリストの提唱者の一人となる可能性を持つなどということは、 当時、 彼を知る人々には、 途方もないことと思われたことでしょう。 しかし、 サウロの人生と使命は、 突然、 劇的な変転を遂げ、 それが彼自身の、 また人類の、 歴史を変えることになるのです。 サウロが、 エルサレムのユダヤ教の祭司長たちから、 イエスの教えに従うユダヤ人たちを捕らえて連行する権限を与えられて、 ダマスコに行く途中、 突然、 天から明るい光が射して、 彼のまわりを照らしました。 彼がびっくりして地に倒れると、 「サウロ、 サウロ、 なぜわたしを迫害するのか」 という声がしました。 自分に話しかけているのは誰かと尋ねると、 「わたしは、 あなたが迫害しているイエスである」 という答えが返ってきました。 その声は続けて言いました、 「さあ立って、 町にはいって行きなさい。 そうすれば、 そこであなたのなすべき事が告げられるであろう」。 サウロは起き上がって目を開いてみたが、 何も見えませんでした。 しかし、 彼は、 神性なる命令に従い、 人々の手に引かれてダマスコに行きました (使徒行伝 9:3~8 参照)。
さて、 そこで、 あなた自身が、 このような神性の命令を受けて、 ある人を癒しに行きなさいと言われたと、 想像してみてください。
この神性なる命令が、 アナニヤという信仰心の深いキリスト者に下りました。 アナニヤも、 また、 神性の幻を見て、 「『真すぐ』 という名の路地に行き、 ユダの家でサウロというタルソ人を尋ねなさい。 彼はいま祈っている」 と言う声を聞きました。 その声は、 アナニヤの幻の中で、 サウロもまた、 アナニヤが彼の所に来て、 彼の目が見えるようにしてくれる、 という幻を見ている、 と告げました。
アナニヤは、 当初、 こんな命令に従うことが賢明なのか半信半疑でした。 彼は言いました: 「主よ、 あの人がエルサレムで、 どんなにひどい事をあなたの聖徒たちにしたかについては、 多くの人たちから聞いています。 そして彼はここでも、 御名をとなえる者たちをみな捕縛する権を、 祭司長たちから得てきているのです」。 しかし、 神性の命令は変わりませんでした。 実際、 それは、 さらに強いものとなりました: 「しかし、 主は仰せになった、 『さあ、 行きなさい。 あの人は、 異邦人たち、 王たち、 またイスラエルの子らにも、 わたしの名を伝える器として、 わたしが選んだ者である』」 (使徒行伝 9:11~15)。 アナニヤは、 サウロが神に与えられた使命が、 彼に 「霊的に」 啓示されているのを感知するように求められたのであり、 そしてそれは、 サウロの評判に基づいて行動することではなかったのです。
アナニヤは神性の命令に従い、 ダマスコにいるサウロのもとへ向かいました。 心の中で、 どれほどサウロについて疑心暗鬼の気持ちで苦しんでいたにしても、 アナニヤは、 キリストの愛の心をもって、 サウロに会いました。 アナニヤがサウロに言った最初のことばは、 「兄弟サウロよ」 でした。 そして彼は、 サウロに、 自分が送られてきたのは、 「あなたが再び見えるようになるため、 そして聖霊に満たされるため」 (使徒行伝 9:17) なのです、 と告げました。 そして、 即座に、 サウロの目が見えるようになりました。 この話は、 パウロが神性の助けを求める祈りと、 キリスト教徒の同胞の一人が受けたパウロを助けに行くようにとの神性の 「命令」 が、 関連していることをはっきりと示しています。
どのような人が、 喜んでサウロのところに行き、 彼を癒すのでしょうか。 パウロの言葉から、 アナニヤの性格について、 多少知ることができます。 パウロは、 のちに、 アナニヤについて、 ユダヤ教の律法に忠実で、 その地域に住むユダヤ教の人々皆から大変に尊敬されていた、 と述べています (使徒行伝 22:12 参照)。
また、 初期のキリスト教徒たちの地域社会を見てみると、 アナニヤについて更に知ることができます。 寛容、 霊的な心、 喜びに満ちた神への賛美が、 この初期の使徒たちの特徴でした (使徒行伝 2:42~47 参照)。 アナニヤの行動は、 これらの特徴と一致します。 恐らく、 アナニヤは、 使徒になった初めの頃、 霊的に強く、 また、 愛に満ちたこの地域社会の力強い支えを経験して、 後にパウロを助けにゆくような深い憐れみと霊的な洞察力を、 養っていたのでしょう。
パウロの求めを察知して、 彼を支えた使徒は、 アナニヤばかりではありませんでした。 パウロは、 使徒となって間もない頃、 もう一つ厳しい局面に出会いました。 (まだサウロという名で知られていたとき)、 パウロは、 エルサレムで、 弟子たちの仲間に加わろうと努めました。 しかし、 抵抗されたのです。 みんなの者は、 このキリスト教徒の元迫害者を疑ってかかり、 仲間に入れようとはしませんでした。 実のところ、 彼らは、 パウロを恐れていて、 弟子であると言う彼のことばを疑っていたのです (使徒行伝 9:26 参照)。
この聖書の話は、 パウロが、 キリスト教徒の社会に拒絶されて、 どのように思ったかについては触れていません。 しかし、 容易に想像できることでしょう。 彼ほどの人でなかったら、 このような教会内での抵抗に落胆して、 自分の受けた神の命令を投げ出してしまっていたかもしれません。
この危機的な局面で、 キリスト教徒の仲間の一員、 バルナバという人が、 パウロの援護のために立ち上がります。 バルナバは、 使徒たちに、 パウロの件を申し立て、 エルサレムの同胞にパウロを加えるように嘆願しました。 バルナバは、 ダマスコへの途上でパウロが経験した変身の経験を目撃してはいなかったのですが、 パウロの証しが真実であることを完全に信じ、 キリスト教徒の同胞たちに、 その確信を分ち与えたのです (使徒行伝 9:27~28 参照)。
サウロのような評判を持つ人を擁護するのは、 どんな使徒なのでしょうか。 The New International Version の聖書の使徒行伝 4:36 は、 バルナバの名前を 「激励の子」 と訳しています。 欽定訳聖書は、 「慰めの子」 と解釈しています。 使徒行伝の著者が、 バルナバの名前の本当の訳を、 聖書の物語の中に加えているということは、 バルナバの名前の意味が、 彼の性質と合致していると考えたからなのでしょう。
バルナバは、 エルサレムでサウロの擁護に立ち上がった後も、 彼を激励し続けました。 それから何年もの年月、 彼はパウロを支える貴重な友人であり続けました。 パウロに対するバルナバの激励と支援は、 2人が使命を果たすため共に行動していた日々、 特に大きな力として働きました。
アナニヤもバルナバも神性の霊感に応えて、 サウロがキリストの使徒となった初期の頃、 彼を助けました。 彼ら自身の霊的洞察力と、 彼らが啓示されたものに応えて行動する意志が、 サウロが後に生まれ変わってパウロとなることを、 支え導いたのです。 これら初期の2人のキリスト教徒は、 キリストの命令を受け入れる同胞愛がもたらす、 力強い霊的支援の証しです。 この2人は、 今日、 私たちの教会を訪れる人々を、 どのように見るか、 注意すべき点を示す重要な模範です。 これらの訪問者が、 どれほどサウロのように思われたにしても、 彼らには、 私たち皆と同様に、 神が定めた使命を受けて、 パウロとなる可能性があるのです。