私たちは、毎日、母を寝室から居間に連れていき、そっと椅子に座らせていました。時には日光浴のために外に連れていきました。妻か私が、ベッドで休ませるために、あるいは、食事やお風呂に入れるために、家のなかに戻すまで、母は、じっと動かずに座っていました。
これが、3年前までの母でした。母は、心臓が肥大する病気、心臓肥大症と診断され、医者によると、治療法としては、生涯、薬に頼ってしか、生きられないということでした。この病気のため、足のつま先から顔まで、体全体がむくんでいました。
私は、母のためによく祈っていましたが、母自身はキリスト教科学者ではなく、お互いの生き方を尊重するということで、母は定期的に医者に診てもらったり、薬を服用したりしていました。何回か医者のところに行ったあとのこと、母は、もう医者には行かないと言って、その後、薬を飲むことも拒みました。以前は、母は床につく前、私と一緒に祈っていましたが、この日は、祈ることさえしようとしませんでした。母は、自分の身体は病気に冒されてしまっている、もう何をしてもだめなのだ、と言いました。キリスト教科学者である私は、母は神を反映している、また、神の理念なのだから、生命をあきらめるなど、考えられるはずがない、なぜなら、私たちは、自由に「神のうちに生き、動いている」のだから(使徒行伝17:28)と、答えている自分に気づきました。
私は一つの決断をしなければなりませんでした。母のことをとても愛していましたし、私の人生の中で母が果たしてくれた役割に敬服していました。私が1才の時に父が亡くなってから、母は、兄たちと私を一人で育ててくれたのです。その夜,床に着く前,私は困惑し、すっかり気落ちしていましたが、すべてを知る父-母神が私たちすべての者を、責任をもって守っていてくれることを、確信し直しました。神は、どんな状況にあっても、何が善いかを知っておられます。私は、必要なことは、それが何であろうと、示されることを知っていました。その夜、私は睡眠中に、2回、はっと目を覚ましました。そこで、いずれの時も、神と母の、そしてすべての人の、完全な性質を知るために祈りました。統治という考えが、強く私の意識に浮かびました。
翌日、私は、いつもより早く起き、朝の祈りをして、すぐに母の家に行きました。前の晩、母の所に泊まってくれた私の上の方の子が、ドアを開けて、なぜこんなに朝早く起きて来たのかと尋ねました。私は、まっすぐに母のベッドに向かって行きました。そして、私は、母の病気について自分が抱いている考えを覆すために、そして、母が、あらゆる意味で、神を反映していることを見据えるために自分は来たのだ、ということに気づきました。哀れみや無力感という思いは全く無くなり、神の現存、愛、善意が、部屋を満たしていることを確信しました。『科学と健康』の中の「存在についての科学的声明」が意識に浮かびました:「物質には、生命も、真理も、知性も、実質もない」(p. 468)。無限の心が統治しているのだから、母は、物質であるはずがありません。祈りながら、私は、「あのこと」、つまり、病気が、母とともに床の中にいるという考えを、退けました。私の知る唯一の母は、神の完全な子、完璧な、何の傷もない、光り輝いている、神の性質である調和と健康を常に現している、あの神の完全な子なのです。その瞬間、母への深い愛を感じました。突然、私は、母の呼び声を聞いてびっくりしました。母はベッドの上に座っていました。
彼女がベッドの端の所までくるのを助け、そして手を差し出しました。すると、一年間、寝たきりだった母が、初めて居間まで一緒に歩いてきたのです。私たちは、「主の祈り」を唱え、それから私は母にお茶を入れてあげてから、仕事に行きました。その日の夕方、私が戻ってくると、母は外に出て、杖を使って歩いていました。体のむくみもなくなっていました。私の心は、神への愛と感謝に満ちあふれていました。母は完全に回復し、その日以来、元気にしています。
最近、母は、私に、祈りの力を信じていると言いました。私の心からの願いは、癒しを通して人々のために働き、人々を愛すことです。真理を知るためには、真理に頼り、真理と共に歩むことです。そうすれば、必ず勝利することでしょう。
ケニア、アヘロ