私はオレゴン州ポートランドに住んでいるが、近くを流れるウィラメット川の土手には、背の高いポプラ並木がつづいている。これら自然の番兵のように立ち並ぶ樹木は、冬になると葉を落としてしまうが、それでも、川向こうの夜の明かりをほとんど吸い込んでしまう。
ところが、クリスマスになると、1本の10数メートルにも及ぶアメリカモミの木に飾られた色とりどりの光が、川の上方に、またポプラの木々の間から、美しく輝く。私は、夜明け前の、あたりがまだ暗闇の中にあるとき、書斎の窓からこれらの光を見ることを楽しんでいる。それは、天使のメッセージである「静かな細い声」について語り、神が、降誕節に私に送ってくれるメッセージである。
ある12月の朝、腰を下ろしてこの木のテッペンに輝く星を見ていると、その星の上方に、もう一つの光が見えた。朝霧のなかで、この2つ目の光が何から来ているのか、分からなかった。早朝に空港に向かっているジェット機なのだろうか? いや、違う、その光は動いていないのだから。そして、ただ静かに、照明をほどこされた木の上方で静止して輝いている。
それから、一瞬に、霧が晴れた。私は細い三日月のかすかな光を見ることができた。その下の方の尖った先端は、木の上の星にそっと触れているようだった。この光景を通して、神の御使いのメッセージは、私に何を告げているのだろうか? それは、「よきおとずれ」を伝えているのだろうか?
そのとき、三日月は、イスラム教のシンボルを、思い起こさせた。そして、クリスマスの星は、ダビデの星、ユダヤ教のシンボルを、思い起こさせた。朝霧に包まれた静けさの中で、これら古代のシンボルが、美しく触れ合っているのを見て、私は思った:ベツレヘムの星は、ダビデの星の兄弟で、イスラム教の三日月に手を差し伸べているのではないだろうか? このキリストの身のひきしまるような冬の朝、あの星と三日月は、アブラハムのすべての子ら、つまりキリスト教徒、ユダヤ教徒、イスラム教徒の皆が、唯一の神の子らである私たち皆が、一つになって、平和になるようにと,呼びかけているのではないか? 私は長いあいだ、静かに座って考えていた。
夜明けが近づき、木の上の星の光も、三日月の光も、弱まり、新しい一日の陽の光りの中に消えていった。しかし、その静かなメッセージは、いつまでも消えずに、クリスマスのもつ深い意味、つまり、キリストの普遍的な力と現存を、私に思い起こさせてくれている。