「娘を思う深い悲しみとともに、犯罪を犯した青年への嫌悪感を、私は抱きつづけていた…」
自分の娘に性的暴行を働いた犯人を許せるようになるまで、父親として、誰でもがたどるかもしれない厳しい道程を、想像してみてください。しかし、私は「真理のもろ刃の剣」(『科学と健康』、p. 458)によって、驚くほど速やかに癒されました。それは、次のような経過をたどったのです。
まだ十代の娘が、性的暴行にあったと聞いたとき、最初に考えたのは,娘の身体と心の健康でした。私たちは、すぐにキリスト教科学の実践士に電話をして、娘のために祈って欲しいとお願いしました。私は、仕事をすべて休み、娘のことに集中しました。祈りの中で、娘が、ひとときも、神の加護と安全から離れたことはなく、彼女の無垢は、完全で、不変であることを、確信しました。時が経ち,警察が取り調べを始めると、娘の癒しも始まろうとしていました。妻と私は、 高校の教務主任たちに会って、この事件の結果、娘に起こっているさまざまの社会的、また学業上の問題に対処することに務めました。私たちは、娘を、年度が終わる前に転校させてもらうことにし、次の学年は別の学校に通えるように、手続きを進めました。生活は平常に戻りつつあるように思われたのですが、私自身には、まだ大きな問題が残されていることに、気づきました。
娘を思う深い悲しみという形で、私は、大きな難題に直面していました。私の「愛すべき子」が、性的暴行を受けた状況を、刑事に詳しく説明するのを聞くのは、本当につらいことでした。私は、頭に強く残ったその光景に、つきまとわれていました。ジャーナリストとして、都会のあちこちを車で走り回っていることが多いのですが、一人で運転しているとき、自分がどこにいて、何をしているのか、分からなくなってしまうことがよくありました。もう、済んでしまったことで、どうにもならないと知りながらも、あまりにもひどいことに思われました。私のいとおしい、まだこんなに若い、創造性に富む娘が、計り知れない傷を負わされていたのです。私は、絶望的な気持ちに陥っていました。
私は、やっと涙を押さえ、目的地に着くという状態でした。心がもぎ取られるような思いと戦いながら、車の中でしばらく静かに気持ちを落ち着かせてから、職務である仕事に心を集中し直さなければなりませんでした。この思いから解放されたいと祈ったのですが、何週間というもの、この同じことが繰り返し起こってくるのです。この悲しみは、いつも、どこからか忍び寄り、そして、いつも突然、襲ってくるのです。
私は、娘のことで、たまらなく悲しくなるばかりでなく、この犯罪を犯した青年に対して、深い憎しみの念を抱いていました。その青年には数年前に紹介され、「よい青年」だと思っていたのですが、今や、彼を心から憎んでいました。また、彼に対して、このように敵意を抱くことは、正当化されるのだと感じていました。その時は、暴行者に対する気持ちと、娘を思う悲しみとの間に、関連があるようには、思えませんでした。
そして、ある朝、まだベッドに横になっているとき,優しい、キリストのメッセージが耳に聞こえてきました:「立ち上がりなさい」。キリスト者らしく、彼を許しなさい、容易なことではないでしょうが、あなたが、いつも「言っていることを、実行しなければならないのです」、本当に、「実行しなさい」。私は、キリスト教科学を、小さい時から勉強してきました。日曜学校で教え、支教会の第1朗読者も勤め、祈って欲しいと他の人に頼まれたこともあります。そんな人生を歩んできた以上、自分が主張してきたことを、実生活の中で、実践しなければならなかったのです。自分に、難問が襲いかかってきたとき、人はどのように対処したらよいのでしょうか。難問が、「自分の方」に向かってきたとき、私たちの考えの「防衛隊」をさっさと退去させてしまうのでしょうか。それとも、私たちが「説いてきたこと」を、実際に、生かすのでしょうか。私は、この青年を、いつか、許さなければならないことを知っていました。しかし、自己正当化と、そして、自分自身を(他の何者でもなく)、これほどまで罰していることの無知ゆえに、許すということを「いつの日か」というリストに、入れてしまっていたのです。私たちは、誰かを許さないということは、何らかの方法でその人を罰しているというふうに、考えがちです。しかし、許すとは、神に、つまり、本来それが帰属するところに、審判と矯正を任せることなのです。
そこで、私は、許しなさいと促されたのです、いや、それはむしろ、即刻、許しなさい、という命令でした! 皆さまはきっと、この話が、この先、許すことができるまで、葛藤しながら、長くつづいていくものとお考えでしょう。しかし、そのようなことには、ならなかったのです。私は、謙虚になって、その言葉に従い、立ち上がって、2階から1階に降りて、いつも祈る場所に行き、この過ちを起こした青年を許すことができるように祈りました。私は、自問しました、「神には、何が見えるのだろうか?」と。
その答は次のようなものでした:「神は、自分の創造したものを、自分の反映として見ている、完全で、純粋で、とがめる所がない」ものとして見ている、というものでした。私の許しを決定的なものにしたのは、神は、この青年のうちに、自分自身の姿を見ているということでした。神は、この青年をそのように評価していることを、私は知ったのです。
「そうか、神がこの青年を無実であると見ることができるなら、それが彼の本当の姿に違いない」と、私は思いました。
それで終わったのです。数分のうちに、すべて済んでしまったのです。この若者をどう見るのか、神の導きに従うことに決めました。もうそこには、 神の清らかな反映だけがいて、「犯罪者」はいなかったのです。 目に見える「犯罪」は、アダムの夢の一部、メリー・ベーカー・エディが、物質的な経験における幻覚のようなものと述べているもの、として処理することができました。そこに行き着くためには、謙虚さが必要でした。子育ての中で学んできたことは、困難を引き起こす最大の原因は、「自分」であるということでした。私たちは、時には,悪が実在すると、確信してしまうのです。そして、その不和が、愛する人、あるいは、とても大切にしている崇拝の対象に関連するなら、まるで巨大な掃除機のように、 私たちを、吸い込んでしまうのです。そして、最大の崇拝の対象とは、「自分」なのです。許すために、私は自己正当化の考えをすべて捨て去り、謙虚に、私の神性の父の導きに従わねばなりませんでした。
それから、1週間以上経って、いつものように、車で、仕事で地域を走り回っていて、ふと気がついたのですが、もう以前のように、私は娘をかわいそうに思う非常な悲しみにうちひしがれて、 車の中で暗い時間を過ごすことがなくなっていたのです。私は確かに癒されていました。この許しが、娘の経験について、繰り返し考えたり、絶望的になったりすることに、終止符を打ったのです。私は、自分で自分を、罰していました。しかし、今や、自由になりました。そして、喜ばしいことには、娘も、前進して、新しい学校の環境を楽しんでおり、社会生活に苦しむこともありません。私は、最終的に、あの犯行を犯した若者を許すことができたのですが、正義を追求する人間的な努力は機能しており、彼を法的に裁く手続きが進展しています。
大変な悲劇が、キリストのメッセージの力強い、純粋さによって、迅速に、効果的に、解消されてしまうことに、私は、これまでも度々驚かされてきました。
この娘との体験が、メリー・ベーカー・エディが、Miscellaneous Writings 1883-1896(p. 51)の中で引用している、トーマス・ムーアの詩を、より意味深いものにしてくれました:
真理の唇からもれる、偉大な一息が
つむじ風のように、風の中に追い散らす
あの人間のまがい物の、敵意の山となっていたものを;
そのとき、心の統治が地上で始まる、
そして、2度目の誕生のように、新たに、始まる、
人は、 世界の新しい春の日の光の中を、
何か聖なるもののように、透明になって歩いてゆく。
私は、キリスト教科学の科学に深く感謝しています。それは、私たち一人一人が、まるで透明になって歩いてゆくように、純粋に、無垢に、神性なるものとして、歩ませてくれます。何か聖なるもののように。