あるとき、 飛行機に乗っていた折、 座席前のポケットに 「善い変化をもたらすために」 (Change for Good) と書かれた寄付のための封筒があったので、 たまっていた小銭 (change) を入れた。 なんとすてき名前だろう、 と思った。 このUNICEFの子供たちへの慈善企画は、 航空会社と提携して、 私のような旅行者から何百万ドルにも及ぶお金を集めている。
この名前が脳裏を離れず、 私は、 変化という理念について考えるようになった。 変化は、 時々、 どんなものでも、 脅迫感をもたらし、 圧倒されそうにさえ感じさせる。 つまり、 変化は確かに良くないものだと感じさせるのである。 それでは、 変化が良いものに感じられることは、 あり得ないのだろうか?
まず手始めに、 このように考えてみよう。 神は善のみである。 神は変わらない。 当然ながら、 神の優しい愛と行き届いた加護は、 有ったり、 無くなったりすることはなく、 神の創造のすべてに行き届き、 自然であり、 絶えることがない。 この事実は、 我々に何が起こっていたにしても、 真実である。
私の好きな賛美歌の一つが、 次のように歌っている、
たとえ暗闇のなかの時でさえ、
神の変わらぬ善意を、 証しする:
霧を貫いて、 神の光、 輝き出ずる:
神は智恵なり、 神は愛なり。
(John Bowring, The Christian Science Hymnal, #79)
この 「変わらぬ善意」 の理念は、 神の恒久的愛を表している。
神の創造したものは、 霊的であり、 神の愛の表現そのものであり、 対象であり、 そしてそれは、 我々すべてを含む。 従って、 この天国の善意の源から切り離されることは、 現実に不可能なのである。 それだから、 変化についても、 威圧されるのではなく、 喜びを感じることができるのである。
喜びと変化は、 必ずしも同席しないように思われるかもしれない。 でも、 同席してもよいのではないか。 子供たちは、 毎日、 何か新しいことを学び、 新しい技倆を身に付けて喜ぶ。 だから、 我々も、 ここから学ぶことができるのではないか。 この雑誌の創立者であるメリー・ベーカー・エディは、 『科学と健康ー付聖書への鍵』 に書いている: 「進んで幼い子どものようになり、 古いものを捨て、 新しいものを求めれば、 考えは進歩した理念を受け入れるようになる。 偽りの道標を捨て去るうれしさと、 それら道標が消えゆくのを見る喜び、 − こうした気持ちが究極の調和の訪れを早める」 (pp. 323-324)。
進んで変化を受け入れることは、 神を信頼すること、 善を信頼することの証明である。 他方、 変化に抵抗することは、 善は、 地平線で止まってしまう、 と言うようなもので、 うずくまって、 「私は、 自分は何が好きなのかを知っている、 そして、 私が知っているものが、 私は好きなのだ!」 と言うようなものである。 恐怖は、 常に未来や未知に関するもので、 このような抵抗と、 手を携える。 しかし、 神は、 愛であり、 「恐れを取り除き」、 すべてを知り、 遍在する、 つまり、 神は、 未知と思われることをすでに知っていて、 我々を導く所にすでに現存している」 (メリー・ベーカー・エディ、 Retrospection and Introspection, p. 61参照)
私は、 自分が変化の見通しにどのように反応しているかを知るために、 自分は以下のどちらなのか、 自問してみる:
・凝り固まっているか ー それとも、 柔軟か?
・怖がっているか ー それとも、 信頼しているか?
・後ろ向きか ー それとも、 進歩的か?
・否定的か ー それとも、 肯定的か?
このような選択は、 未知の世界に踏み出した人すべてが直面しているのである、 聖書の中で、 モーセが紅海へ足を踏み入れた時も、 コペルニクスが、 勇敢にも、 地球は太陽の回りを廻っていると述べた時も、 そうであった。 しかし、 恐らく公平に考えて、 人類の運命をより良いものに変えた人は、 変化に直面したり、 変化を造り出したりしたときに、 柔軟であり、 信頼し、 進歩的で、 肯定的であって、 凝り固まっている、 怖がりやの、 後ろ向きで、 否定的な人ではなかったのではないだろうか。
アブラハムについて考えてみよう。 彼は、 モーセの何百年か前に生きていた人で、 彼の生涯については、 創世記 (12~25章) に書かれている。 カルデアのウルで、 彼は家族と楽しく過ごしていた。 ところが、 ある日、 神が、 「あなたは国を出て、 親族に別れ、 父の家を離れ、 わたしが示す地に行きなさい」、 と言った。 驚くことに、 彼と家族はその通りにしたのである。
彼の人生の旅路を追ってみると、 それはまるで予測不可能な変転の壮大な叙事詩のようである。 すべてが未知なのである。 この旅路には、 計画はない。 天気予報を聞く人もいない。 途中で出会う部族が、 好意的か、 敵意を抱くか、 聞く人もいない。 しかし、 アブラハムは旅するうちに、 神が、 唯一の神であることを知り、 信頼できることを学ぶ; この神はまた創造者であり、 愛する神であって、 父でありまた母である特質を持つことを学ぶ。 アブラハムは、 神から、 自分が偉大な国の父祖となるという約束を聞く、 そして、 子をはらむ年齢をすでに過ぎていたにもかかわらず、 妻は息子イサクをやどす。 そこで、 アブラハムは、 神への献身を証明するために、 イサクを犠牲にして、 祭壇に捧げねばならないと思ったとき、 この残酷な儀式は、 変らぬ神性な愛の意志ではなかったことを学ぶ。
アブラハムの、 この神についての新しい理解こそ、 最大の変化である。 それにより、 彼は、 自分の生き方や礼拝の方法ばかりではなく、 国全体のあり方をも変えた。 2000年近く経った後、 彼の子孫たちは彼を覚えていた: 「信仰によって、 アブラハムは、 受け継ぐべき地に出て行けとの召しをこうむった時、 それに従い、 行く先を知らないで出て行った」 (ヘブル 11:8)。 そして、 『科学と健康』 は、 アブラハムは、 「愛の目的は、 善への信頼をつくることであることを例証し、 また霊的理解には、 生命を保持する力があることを示した」 (p. 579) と述べている。
変化に上手に対応する能力は、 神との不滅の関係を信頼することから自然に備わる人の生活技能である。 「われわれは神のうちに生き、 動き、 存在している」 (使徒行伝 17:28) と、 聖パウロが述べた言葉の意味を知って得る安定は、 人生の荒れ狂う高波をも、 羅針盤を失うことなく、 航海する力を含む。
人生の 「節目となる出来事」 の多くは、 変化を含む、 たとえば、 小学校に入学するとき、 高校から大学に進学するとき、 働き始めるとき、 結婚するとき、 また、 定年退職するときが、 そうである。 そして、 その各々の折が、 変わることへの怖れ、 または抵抗感を、 克服する機会ともなり得るのである。 神性の愛は常に現存するという確信は、 変化にいどむ時、 たとえ厳しい挑戦を受けようとも、 敗北ではなく、 勝利への道を切り開く。
変化は、 それが神性の心の働きを反映するとき、 発展と進歩に導き、 決して怖れるべきものではない。 祈りは、 神の手が舵を取っているという静かな確信、 また、 神の物事の処理の仕方は、 安全であり、 確実であるという、 確信をもたらす。
ある友人の例が、 上記の素晴らしい例証となっている。 彼は、 まもなく定年というとき、 家族が所有する会社から彼が受けるべき利益が、 他者の思慮に欠ける行為により、 失われてしまった。 それは、 一生働いて得た報酬が、 盗まれるという、 彼にとって考えられないことのように思われた。 しかし、 私が最も鮮明に覚えているのは、 彼の不屈の回復力と、 過去を手放して前進する類まれな能力だった。 彼は、 善の源泉は、 神であり、 恒久的で、 不変であることを確信していた。 彼は、 キリスト教科学の支教会の朗読者の仕事を引き受け、 同時に、 多くの人に益をもたらす臨時の仕事を引き受けた。 その後、 彼は、 家族の一部ともに、 地球の反対側に位置する国に移り住み、 新しい国で、 今までしたことのない仕事に取り組んだ。 彼は、 新しい人生を心から楽しみ、 後ろ向きになって、 恨みを覚えるようなことは決してなかった。 彼は、 通例の定年の年齢をはるかに過ぎても働き、 新しい経験に、 若々しい楽観主義と情熱を抱き続けた。
時に、 変化は、 怖れるものというより、 差し迫った必要のように思われる。 私の別の友人は、 イギリスの大都市の危険な地域で初めて教師となったが、 そこで、 このような事態に直面した。 彼女の情熱と高い志にもかかわらず、 教室は、 暴力で荒れていた。 暴力は、 前触れなしに勃発する。 生徒たちは、 つばをはき、 口汚くののしり、 椅子や机を投げたりした。 それは、 彼女の静かな生活とは大分違うものだった。 彼女には、 事態に対決して、 治めることはできなかった。 しかし、 すべての者の益のために、 変化が必要であることは明白だった。 彼女は、 神の力が癒すという確信を強く持ち、 自分はこの学校で教えるように、 導かれていると感じていた。
ある日、 教室で、 また嵐が吹き荒れる予兆を感じながら、 自分が一歩引き下がっていることに気づいた。 そして、 次の言葉が意識に浮かんだ: 「人は自由に『聖所にはいる』 − 神の領域にはいる ー ことができるのである」 (『科学と健康』、 p, 481)。 一瞬、 彼女の意識から周囲の混乱が消えた。 突然、 彼女は、 心の中で深く、 自分も生徒たちも神の支配下にあり、 今、 神の子らのみが教室にいることを、 実感した。 驚いたことには、 彼女が、 再び、 生徒たちの方に目をやると、 皆、 静かに座っていて、 彼女が次に何を言うのか、 待っているようすだった。
それから幾週間か、 相変わらず混乱は起こったが、 彼女は、 その度に、 この同じ祈りの方法で対応した。 同僚の教師たちは、 彼女があの教室で何の問題もなく教えていることに驚き、 信じられないようすだった。 その後、 彼女は、 さまざまの独創的な方法で教えることができ、 生徒たちのなかには、 とても考えられなかった職業に進んだ者もある。 この友人は、 その卓越した授業が認められて、 フルブライトの奨学金を与えられ、 アメリカで学び、 教えることになった。 彼女は20年以上、 この方法で、 若い人々を教え、 同様の結果を出し続けている。
新しい発見が社会を圧倒し、 人々が自分の技術はもはや時代遅れだと思うようなとき、 ある種の変化は、 受け入れがたいものに思われる。 そんなとき、 自分は無視されていると感じてしまうかもしれない。 しかし、 真実には、 神の大切な子らが、 不要になることは決してないのである。 人の真の価値が、 回りの状況の変化によって、 下がることはないのである。 中世の写本家は、 印刷機の出現によっても、 価値が落ちることはなかったし、 時計作りが、 クオーツの使用によって価値を落とすことはなく、 石炭の採掘業者が、 新しい種類のエネルギーの発見によって、 その価値を落とすこともない。 コンピューター技術は、 非技術的な技倆の価値を下げることはない。 しかし、 これら広範な変化は、 すべての人に、 若い人にも、 年配の人にも、 何かを要求する。 それは、 新しい発展に向かう態度を促し、 前進する意志のある人々に前進の機会を与える。
また、 善の正反対であるかのように見える種類の変化もある。 メリー・ベーカー・エディは、 この問題について探求し、 人間の生存を脅かすように見える動乱について、 『科学と健康』 に次のように書いている: 「この物質的世界は、 今でさえ相争う力の舞台となってきている」 という言葉で、 この文章は始まり、 「飢饉や疫病、 欠乏や悲嘆、 罪、 病気、 および死」 に言及する。 それは、 離婚、 倒産のように、 突然に襲ってくる個人的な激震を含み、 また地球規模のもの、 たとえば地震、 洪水、 災害、 餓死もある。 そして、 この文章は、 「一方には、 不和と狼狽がある。 他方には科学と平和がある」 と続き、 「信念は変わりやすいものであるが、 霊的理解は不変である」 (p. 96) と結論している。 彼女はこれらの事実を実際に認識して、 世界の人々にこれら理念を提示したのである。 彼女は、 人類は、 もし心的に、 また霊的に、 前進する能力がなければ、 絶望や破壊から救う科学、 つまり、 キリストの知識について、 いつまでも無知でいることになることを認識していた。
そこで、 否定的外観を乗り越え、 創造されたものの霊的事実を見極めて、 前進する能力を発展させることは、 自分自身のためのみならず、 全世界のために、 非常に重要である。 そして、 この能力は個人的なものではない。 最高の意味において、 それは、 神の愛と不変の善意を反映し、 それが、 癒し、 回復、 復活、 発展、 進歩となって現れるのである。
そして、 世界はこのようにして、 良く変わってゆくのである、 一刻一刻、 それぞれの考え、 それぞれの人生において。