「ある夜、バーで独り酒を飲んでいたとき、自分は誰なのだろうかと、考え始めた… 」
私は子供のとき、キリスト教科学の日曜学校に時々通っていたが、大学4年の1969年まで、キリスト教科学を本気で学んではいなかった。ある夏、職場で扱っていたプロパンガスが爆発して、大やけどを負ってしまった。やけどの状態が激しかったので、雇主は私を病院に連れて行ってくれた。私の体の25%に2度のやけどを、また、10%に3度のやけどを負っていた。
父が病院に来てくれるとすぐに、私は、キリスト教科学の実践士に電話をかけて、私のために祈ってくれるように頼んで欲しいと言った。父が電話をしてくれると、実践士は、私を祈りで支えることを承諾してくれた。病院に入院して3日目の日曜日の朝、私は医師に、これ以上、鎮痛剤や抗生物質の投薬をしないで欲しいと頼んだ。医師は、ひどい痛みに苦しむことになり、やけどは化膿しがちである、と警告した。私はキリスト教科学の治療のみに頼りたいと心から思っていたので、自分の希望を繰り返し述べ、医師はついに不本意ながら承諾してくれた。
そこでそれ以上、薬は与えられなかった。その日曜日以降、私は、急速に回復し、もはや痛みは無かった。次の週末に、医師は病院から私を退院させた。それから約1週間もすると、事故の形跡がほとんど消えてしまった。失っていた頭髪も、失っていた9本の指の爪も正常に生えてきた。やけどが最も激しかった顔と耳に小さな傷跡が残っているが、傷跡はほとんど消えてしまった。
この経験を通して、私の性格が急激に変わった。例えば、ある夜、学校で、仲間たちが、ハッシシを吸うパイプを廻していた。以前、私は、面白半分で麻薬を使うことがあったが、その夜、パイプが自分のところに回って来たとき、それを口に入れることができなかった。私はそこを立ち去りながら、何が起こったのだろうか、と考えた。神性なるものが私の思考のなかで、癒しの効果をもたらしたに違いないと思った。私は、神がどのようにしてこれを働いたのか知りたかった。次の春、私は、大学の物理工学科を卒業した。姉は、私が本当に大学を卒業できたのだから、何か良いことが起こったに違いない、と言った。私は、麻薬を完全に止めたが、しかし、飲酒はつづけていた。酔っ払うこともよくあった。
キリスト教科学は、酒を飲むことを決して許さないし、支持しないことを、私は知っていたが、小さな子供の頃から酒を飲んでいて、酒が好きだった。酒を止めることはできなかったし、止めたくもなかった。酒を飲むことと、キリスト教科学を忠実に実践することとは、相容れないと何度も言われてきたが、その時は、なぜ矛盾するのか分からなかった。なぜなら、私は、アルコール中毒ながら、キリスト教科学に興味を持ちつづけ、幾つもの癒しを経験してきたではないか。神についてもっと学ぼうと励み、自分が理解したことを実践しようとしてきたではないか。
なぜ酒を全く飲んではいけないのか、本気で理解しようとしているうちに、飲む酒の量は確かに減っていった。しかし、それは、ある場合には、飲みたいという衝動を意志の力で押さえ込んだことによるものだった。私はまだ癒されていなかった。神は、なぜ、また、どのように、すべての人を、酒を飲みたいという願いから自由であるように創造したのか、やはり理解できなかった。私は、絶えず神の声に耳を傾けていた、そして、何よりも神の指示に従いたいと、願っていた。私は、『科学と健康』の中で自分が読んでいることが真理であり、信頼できることを、経験から知っていた。そして、この本も、また経験あるキリスト教科学者たちも、私は、神性の心の理念として、神の映像また似姿として、造られているので、自分にとって善いことしか願うことができないのだと、話してくれていた。神をより良く現すことを妨げるものは何でも、どんな習慣や性癖も、本当に捨て去りたいと、私は願っていた。そして、神が私のために備えてくれているものは何でも、受け入れたいと心から願っていた。
メリー・ベーカー・エディは、次のように書いている:「悪が、身体的感覚の中で存在を得ても、心で咎めていれば、悪は基盤をもたない;しかし、もし悪を咎めていないならば、それは否定されておらず、むしろ養成される。そのような状態にある時は、悪は存在しない、と口で言うこと自体が、悪なのである。必要なときには、嘘についての真実を知らせなさい。真理の回避は、高潔さを弱め、あなたを塔の頂きから突き落とす」(『科学と健康』、p. 448)。また、エディ夫人は、次のようにも述べている、「人が神自身の似姿であるということを自ら認めるとき、人は無限の理念を勝ち取る自由を得る」(『科学と健康』、p. 90)。そこで、私は酒を飲み続けている間も、自分の飲みたいという「願い」を咎めつづけ、自分は神の純粋な、霊的理念であるという事実を、考えに受け入れていた。
そして、ある夜、バーで一人で酒を飲んでいたとき、自分は誰なのだろう、神は私に何をするように望んでおられるのだろうかと、考え始めた。すると、突然、私は、神に創造されたものとして、神性の心を反映していて、すべて賢く、すべてを知る心から来ないものは、何であれ望むことはできないことが、非常にはっきりと分かった。私の人生は、本当は、私のものではなく、神からの贈り物であることに気づいた。私が自然に現すものは、心を、心のすべての知恵によって反映しているのであり、神性の生命の豊かさと喜びを反映しているのであることを理解した。だから、私は、この喜びを実現し、そして私の使命を果たすために、異質のものを体に入れる必要はないのだった。そればかりか、どんな物質にも、私の喜びを取り去る力は無いのだった。私は、立ち上がって,そこから出ることにした、そして、バーの入り口のドアに着くまでに、私の酔いは完全に醒めていた。
それから40年近くになるが、私は、酒を飲みたいと思ったことは一度も無い。そして、飲酒は、神に創造された、私の真の霊的身分の一部であったことも無いことを、はっきり理解している。この癒しを経験して、私は、再び飲みたいと思ったことが一度もないばかりでなく、アルコールが体に及ぼす影響は、滅びる心の信念に過ぎないこと、そして、その信念は、我々が自分たちの真の霊的本性についての真実を受け入れると、永遠に消えてしまうことが、証明されている。
米国、サウスカロライナ州、グリーンビル
私はデイブの姉です。家族の者たちは、彼が爆発事故で受けた怪我が癒されるように、献身的に助けましたが、彼の体を回復させたのは、霊的な癒しの方法に頼りたいという彼自身の強い決意でした。
彼は遠くの大学にいたので、私は、彼がバーを出て、私に電話してきたその夜まで、彼があれほどお酒に浸っていたことを知りませんでしたが、そのとき、彼は、即座に「酔いが醒めた」経験を、驚きと感動と感謝に満ちて、話してくれました。それ以来、この癒しについて彼が話すときはいつも、あの瞬間の理解で得た経験の喜びと解放感が、なおその声に響いています。
やけどの癒しを経験した後、デイブは、真理に対し、より広い心と、より感謝に満ちた気持ちを持つようになりました。飲酒の癒しを経験してから、彼は、静かに、そしてしっかりと目的に集中するようになりました、つまり、内面的に強くなり、両親や仲間の考えに頼ることがなくなりました。大学卒業後、彼は、人があまり選ばない道に進み、神と祈りに更に深く頼りつつ、人生を切り開いてきています。