Skip to main content Skip to search Skip to header Skip to footer

ナタン: 神の導きに耳を傾ける

キリスト教科学さきがけ』2009年07月 1日号より

The Christian Science Journal, 7.2008


巨大な権力を持つ王に向かって、 「あなたは間違っている」 などと、 言わなければならないとき、 どのように話したらよいのでしょうか。 特にそれが、 多くの戦いに勝利し、 将軍たちからも、 召使いたちからも、 敬われ、 慕われている王だったとしたら、 どうでしょう。 聖書のサムエル記下に登場する、 預言者ナタンは、 まさにそんな努めを果たしました。 このナタンの話は、 他の人にその罪を効果的に指摘できる唯一の方法は、 神性の心に、 意志の伝達を委ねることであることを教えてくれます。

ダビデ王は、 部下である兵士の妻、 バテシバを欲しました。 王は、 彼女を呼び寄せ、 後に、 彼女が自分の子を身ごもったことを知ると、 彼女の夫、 ウリヤが、 殺されるように謀りました。 王は、 ウリヤを激しい戦いの最前線に送り、 ウリヤは殺されてしまいました (サムエル 下 11:15)。 「しかし、 ダビデがしたこの事は主を怒らせた」 (サムエル下 11:27) と聖書に書かれています。 ダビデに、 彼自身のために、 この罪をあがなわせるため、 彼をその情欲と身勝手な催眠的な夢から、 目覚めさせなければなりませんでした。 これを成し遂げるため、 「はナタンをダビデにつかわされた」 (サムエル 下 12:1) のです。 しかし、 ナタンにとって、 これは危険な使命でした。 ダビデは、 自らの正当化に凝り固まって、 ナタンが、 王は罪を犯した、 そこでその罪をあがなわねばならないという、 神のお告げを持っていったとしたら、 王は激怒したかもしれません。 王であるダビデに、 そのような話をしたといって、 ナタンを殺していたかもしれません。

しかし、 ナタンは 「神につかわされて」 いたので、 どのようにしてこの使命を果たすことができるか、 神である心に導きを求めました。 彼は、 まず、 ダビデの罪について触れることを避け、 ただ、 ある金持ちの男の話をしたのです。 その男は、 たくさんの羊を持ちながら、 一頭しかいない貧しい隣人の羊を盗んだのです。 ダビデ王は、 その話を聞いて、 憤りました。 その時のようすは、 次のように記されています。 「ダビデはその人の事を非常に怒ってナタンに言った、 『主は生きておられる。 この事をしたその人は死ぬべきである』 ... ナタンはダビデに言った、 『あなたがその人です』」 (サムエル下 12:5, 7)。 その瞬間、 ダビデは自分の罪に気づき、 それをとがめました。 ナタンは、 彼の使命を、 個人的な感情を含めずに、 しかも有効に果たしたのです。

ときに、 私たち自身も、 誰か、 例えば、 家族や友人、 上司や、 権威ある地位にある人を、 催眠的な夢から、 目覚めさせなくてはならない任務を負うことがあるかもしれません。 私たちはとかく、 自分自身の説得力、 理屈、 善悪の判断に、 頼ってしまいがちではないでしょうか。 そうだとすると、 成功する確率は低いことでしょう。 そして、 これは不可能な使命なのだと、 感じてしまうのではないでしょうか。

メリー・ベーカー・エディは、 次のように書いています: 「祝福された師イエスの精神があってはじめて、 人に彼の欠点を告げ、 あえて人の不快を招いても,正しいことを行ない、 人類に益をもたらすことができるのである」 (『科学と健康』、 p.571)。 この 「祝福された師イエスの精神」、 つまりキリストの意識が、 人間の論理や人間的な手段や方法を抑えて、 心を優先させるのです。 この意識に動かされて、 まず心に耳を傾け、 自分の個人的な利益、 意見、 判断、 非難が、 なくなっていることを確かめなければなりません。 私たちも、 ナタンのように 「主につかわされた」 のであることを、 しっかり認めなければなりません。 すると、 私たちの考えは、 神性の霊感を素直に受け入れ、 何を言い、 どうすればよいかが、 私たちに示されるのです。 きっとそのつど、 違ったことが示されることでしょう、 神の理念は、 それぞれ個別に現されるからです。

この準備に当ってまず必要なのは、 すべての人は平等に神である心の知性を活用できること、 善を完全に識別することができ、 そして、 喜んで受け入れる用意があることを、 確信していることです。 ナタンがダビデのもとに行ったとき、 王は、 心の知恵から完全に離れていると、 ナタンが信じていたとしたら、 どうなっていたか、 想像してみてください。 彼は、 ダビデの心を動かすことはできなかったでしょう。

愛をもって、 効果的に意志を伝えるなど、 不可能な使命であると感じたとき、 ナタンの例が、 私たちを勇気づけてくれることでしょう。 私たちの使命は、 他の人々を教え導くことではなく、 神性の心の光に、 道を照らさせることなのです。 

『さきがけ』の使命

1903年に、メリー・ベーカー・エディは、『キリスト教科学さきがけ』を創刊しました。その目的は、「真理の普遍的活動と有用性を宣言する」ことでした。ある辞書によると、『さきがけ』定義は「先発の使者」(先触れ、先駆け)ー 後に起こる事が近づいていることを告げるために先立って送られる者、使者」であり、『さきがけ』という名称に重要な意味を与えています。さらにまた、この定義は、私たちの義務を指し示しています。それは私たち一人一人に課せられた義務であって、私たちには、私たちの『さきがけ』がその責務を十分に果たしているか見届ける義務があるのです。この責務はキリストと不可分であって、まず初めに、イエスが、「全世界に出て行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えよ」(マルコ 16:15)と述べて、表明したものでした。

Mary Sands Lee (メリー・サンズ・リー)、Christian Science Sentinel, 1956年 7月 7日

『さきがけ』について、その使命について、もっと知る