私の人生は、 去年の夏、 始まったように思われます。
説明しますと、 2年ほど前から、 私は、 左の目の上に何かできものができていました。 夏の間、 ラジオとテレビのCMをかねた情報が、 太陽の光線にあたる危険と、 皮膚がんに対する恐怖を蔓延させ、 私の家族は、 私のできものも、 それではないかと心配していました。 妻は、 幾度となく、 特に色や形が変わる度に、 私のできものについて言及していました。 私が、 医者にかからず、 また、 キリスト教科学の実践士に、 祈りの治療を頼む電話もしていなかったので、 どう対処しているのかと、 妻に聞かれました。 できものは、 痛くなかったので、 無視していました。 そして、 何となく、 それに注意を払えば、 できものに力を与えてしまうと思っていたのです。
妻は、 キリスト教科学者ですが、 私は、 30年あまりの結婚生活で、 キリスト教科学の講演会に何度か行って、 そこで、 ある講師が話したキリスト教の概念に興味を持った以外は、 その教えに懐疑的でした。 その講師とは、 ときどき連絡を取っていました。 しかし,私は、 熱心な高校の教師で、 スポーツのコーチ、 春と夏には審判を務め、 また父親でもありました。 そこで、 キリスト教科学が求める献身に、 費やす時間などないと思っていました。
ある時、 この教えをもっと深く理解し、 実践したいと思い、 キリスト教科学の初級クラス指導を取ろうかと思ったこともありましたが、 実現には至りませんでした。
その1年後、 就寝のころ、 妻と口論をしました。 その後、 興奮して眠りにつけませんでした。 落ち着かないまま、 夜中に起きて、 いすに座り、 キリスト教科学の聖書教課を読みました。 この晩が、 私の霊的試練の始まりだったと思います。 感情的な葛藤の深みの中で、 もうこれ以上、 キリスト教科学の教えに抵抗することはできないとの思いに打たれたのです。 そして、 もっと学び、 知りたい、 そして、 その用意ができていると思いました。 この目覚めは、 私に深い平安をもたらし、 そのあと、 安らかに眠ることができました。 翌朝、 妻にこのことを話すと、 この重大な選択をしたことを、 一緒に喜んでくれました。 その後まもなく、 キリスト教科学の初級クラスをとる手続きをしました。
クラスに行くまでのあいだに、 顔のできものはどんどん大きくなり、 腫れてきていました。 自分でできる限り祈っていましたが、 エディ夫人の教えを一貫して実践していたとは言えせんでした。 できものには、 まだ痛みがなかったので、 妻の心配をよそに、 心配はしていませんでした。
そして、 そのすべてが、 アメリカの南西部で2週間のクラス指導を受けている間に、 変わったのです。 クラスが始まって2、 3日したとき、 散歩に出て、 妻に携帯電話をかけました 。数分話してから、 妻ができものは, どうなのかと聞いてきました。 いつものとおり、 大丈夫だと言いました。 すると、 妻は、 大学へいっている娘が、 私が、 そのできものにどう対処しているか心配で、 泣きながら電話して来たと言いました。 そのとき、 もし私のできものが他の人たちを心配させているのなら、 特にそれが、 愛する人たちなら、 そのできものが、 そこにある権利はないと思いました。 そして、 すばらしいことが起きたのです。 散歩を続けていると、 ある教会の 「霊にあふれんばかりに」 という看板を見ました。 そうだ、 私も、 「霊にあふれんばかりに生きている」。 その瞬間に、 自分が、 神にあふれ、 霊にあふれ、 そして神がどこにでも在ることが、 実感されました。 自然に微笑んでしまいました。 すべてが変わりました。 クラスでは、 神の同意語である霊について多くのことが話されました。この時、 霊がすべての空間を満たしていることに気づきました。 つまり、 「すべてが霊である」 から、 できものが存在することは不可能であることに目覚めたのです。
また、 私は、 メリー・ベーカー・エディが、 神が、 つまり神性の心が、 身体を支配することを理解するとき、 恐れなどが、 私たちの平安を脅かすことができないと、 述べていることについて考えました。 その時、 この神性の支配について、 何かしら理解したのだと思います。 妻や娘を捕らえた恐怖が、 私に何の力も及ぼせないということを知ったからです。 その恐れを、 私が受け入れる必要がないと、 はっきり理解できました。
2時間ほどの散歩だったと思います。 ホテルの部屋に戻って鏡を見ると、 できものが無くなってゆくように見えました。 2、 3週間のうちに、 できものは、 跡形もなく、 消えてしまいました。 実際、 クラスが終わって、 家に帰ったとき、 妻は私を見て、 癒しの早さにびっくりしていました。
何週間かして、 娘に会ったとき、 何か私について変わったことがないか、 聞いてみました。 長い間、 私の顔を見たのち、 「パパ、 もうないじゃない。 どうしたの?」 と聞かれました。 私の顔をさわって、 「パパ,奇跡ね」 と言ったのです。 キリスト教科学の家で育った子供たちですが、 この癒しの科学の効果が、 信じられないこともあったようです。 ですから、 この瞬間は、 本当に意味深いものでした。
私は、 それまで、 キリスト教科学に抵抗してきたのですが、 それは、 自分の生活を変えてまで、 また、 私を幸せにしてくれると思っているものを捨てるほどに、 献身的にはなれないと思っていたからです。 しかし、 この科学を勉強することによって得ている喜びや満足感、 私の人生にもたらしている愛、 そして、 今、 私の考えを引っ張ってゆく愛が、 また私を導いているのです。 愛が、 私の人生を導いているのです。 以前、 私は感情的に、 また、 物質的に欲しいもの、 例えばお金などを基準に、 いろいろ決断していました。 今、 私は神に相談しないで、 物事を決めるなど、 考えられません。
今、 思えば,何年にもわたって、 私は、 キリスト教科学を受け入れられるように準備されていたのだと、 思っています。 また、 私の心の準備が必要だったのだと思います。 これは、 誰にでも言えることでしょう。
私の人生は、 本当に変わりました。 妻とこの一年を振り返って、 この一年が、 私たち夫婦にとって、 最高の年であったと、 認め合っています。
米国、 デラウェア州、 エレンデール
妻の言葉
夫が癒される前、 私は 夫の顔の左側にあった見苦しいできものを見ないように、 意識して他に目をやるようにしていました。 30年ほど生活を共にしながら、 私が実践していたキリスト教科学を学ぼうとはしていなかったので、 恐怖心にかられたのだと思います。 しかし、 彼は、 私が経験してきた祈りだけによる癒しをたくさん見てきましたし、 この貴重な教えを学ぶうちにおきた、 私の霊的成長、 性格の変化を見てきました。 それでも、 彼が、 医者の助けもかりないので,問題を無視しているのではないかと心配していました。
しかし、 夫がキリスト教科学の初級クラスを受けるように導かれたとき、 これは、 祈りの結果だと思いました。 私は何年も前に初級クラスを取っていました、 そしてそこで、 できもののように、 見苦しい、 不完全なものが、 神自身の子を犠牲にすることはできないことを、 学んでいました。 そして、 夫のガスが、 このできものから解放され、 私もまた、 恐れから癒されることを確信していました。 ガスがクラスの準備を始めると、 彼の考えが開かれ、 柔軟になってゆくようすに、 これは、 癒しの印であるとの確信を深めていました。
彼がクラスを受けるため家を離れていたある日のこと、 彼が、 携帯で電話をしてきました。 長い散歩の途中で、 次のようなことを話してくれました: 「ドーニィ、 僕は霊に満ちあふれているよ」。 彼は、 この深い洞察に感動していました、 そして、 私も、 キリストが、 夫の考えに、 この貴重な、 変革をもたらしているばかりでなく、 私にももたらしていることを知り、 感動していました。 そのとき、 このできものへの恐怖が、 すべて消えました。 夫に再び会ったときには、 彼はこの問題を克服していることが示されるにちがいないと思ったのです。 そして、 実際にそうなりました。
10日後に、 彼に会ったとき、 私は、 やはり、 夫のできものを見ないようにしましたが、 今回は、 見るのが怖いからではなく、 勝利したという気持からでした。 物質のなかに生命と成長 (できものも含む) があるという肉の心の嘘、 そしてそれが私たちを脅すことができるという 嘘を、 見下す思いからだったのです。 そのようなものに2度と、 頭を下げるものか、 と決心しました。 それから、 家に戻って、 しばらくすると、 できものは完全に消えてしまいました。
この癒しは、 娘にとって、 特に説得力のあるものでした。 娘が、 大切な父親の頭を見るたびに、 怖くて涙が出ると話してくれたとき、 私は、 彼女が、 神性の愛の力が癒すことに、 私たち同様、 畏敬を覚えるばかりか、 深く感謝するにちがいないと確信したのです。 確かに彼女は、 そのように感じて、 その結果、 彼女の考えは、 神を、 そして神の彼女への愛を、 深く理解するように導かれてゆきました。 私は、 この癒しに本当に感謝しています。
ドーン・E・レインストロム