私たち夫婦が最初の子どもの誕生を待っていた1970年代のこと、私たちは、出産前の診断のため近くの医院に行きました。血液検査の結果、私たちは、医者から私がRh陰性の血液型であると告げられました。今回の子どもには支障はないが、これから先に生まれる子どもには、好ましくない影響、死に至る影響さえあるかもしれない、と言われました。出産後24時間以内に薬の投与を受けなければ、子どもは一人までと覚悟したほうがよいと言われました。
この暗い予告を受けて、私は非常に不安になりました。そこで、キリスト教科学の実践士に電話して、祈りによる助けを依頼し、それまであまり感じたことがないほど困惑しながら祈りました。おそらく、ほとんどの母親は問題解決のため、その薬の投与をありがたく受けるのだろうと思いました。幼少からずっとキリスト教科学の生徒だった私は、この科学の癒しの力を何度も目撃してきたので、調和をもたらすために、薬よりも、神に向かいたいと思いました。生命そのものである神よりも、化学物質の混合物に力があるという考えに、私は霊的に抗議しました。神は、すべてであり、全能であり、そして、神の創造したものを維持する無限の能力を有することを、祈りの中で強く主張しました。最初の子が生まれる前に、私たちは引っ越していたため、当初この状態を警告した医者は、出産に関わりませんでした。神に完全に頼ることができるという確信が非常に強く、薬の投与は受けませんでした。そして、出産は、無事に終わりました。
主人と私は祈り続けました。約1年後、再び妊娠していると知ったとき、私は、ひたむきに、この2番目の子と私自身についての霊的事実に、考えを集中しなければならないと思いました。毎日、私は、神が唯一の創造者であって、神は自ら創造するものすべてを愛情深く加護しているということを、はっきりと認識するようにしました。私は、この子供の生命の源ではない、だから、私はそれを破壊するものにはなり得ないのです。神は、この大切な、いと小さきものをすでに知っていて、愛している、ということをもっとはっきり理解するように務めました。神の愛の法則は、悪意に満ちた、体に敵対するような仮定の法則や働きを、却下するのです。
キリスト教科学実践士の絶え間ない祈りに感謝しつつ、自分の祈りも熱心に続けました。それでも、時々、私の祈りが有効に働くのだろうかと、不安に襲われることもありました。
2番目の子の出産予定の2カ月ほど前、キリスト教科学の水曜の証しの会の朗読のテーマが、強く私の心に響きました。朗読の中に、「ヨハネによる福音書」の中の話があって、それは、ある父親が、イエスに自分の死にかかっている息子を癒してほしいと、必死に頼む話でした。イエスは、「あなたがたは、しるしと奇跡とを見ない限り、決して信じないだろう」と言いました。父親が再度助けを求めると、イエスは、「お帰りなさい。あなたのむすこは助かるのだ」と言いました。父親が家に着くと、息子がすっかりよくなっているという知らせを聞きました(4:46-53 参照)。聞いているうちに、その話の持つ力が私の心に注がれてきました。そして、自分も、イエスに助けを求めた親と同じ状況にあるように感じました。父親は、そのとき、変化が起こった証拠を見なくとも、イエスのことばを信じ、それを信頼して、その場を立ち去らなければなりませんでした。私も、1年半前からキリストが私に伝えていることを、信頼できるのだと思いました。キリストのメッセージがすぐそこで、「大丈夫。なぜなら、もうすでに大丈夫なのだから!」と言っているようでした。私の恐怖は消えてしまいました。
このすぐあと、主人と私は、医者に支援してもらって、自宅出産をすることにしました。血液検査はしないようにお願いすると、医者はこの願いを尊重してくれました。娘のレイチェルは、何の問題もなく、無事生まれました。血液による問題の痕跡もなく、医者はまったく健康であると宣言してくれました。この出産後も、神に信頼し続けることを選択して、薬の投与は受けませんでした。
1年半ののち、神の見解と権威に頼り続けるという決意のもと、3人目の子が健康に誕生しました。4人目の子が生まれる時は、2人目と3人目の出産の時の医師が引っ越してしまったため、近隣の助産婦に頼みました。この助産婦は、すぐに私の血液型はRh陰性かどうか聞きましたので、私は、「そうです」と答えました。この助産婦が血液検査をしたところ、Rh陰性の血液型にもかかわらず、3人の子どものいずれの出産後においても、予告されていた危険な事態はまったく起きていないことが確認されました。4人目の子も、無事にすばらしい健康状態で生まれました。
問題に対処する便利な薬があるのに、なぜこのような祈りの努力をするのか、その意義があるのだろうかと思う人がいるかもしれません。私にとっては、神の管理を越えた状態は一つも存在しないという理解を、しっかり保持したいので、このような努力をする意義があるのです。そして、私の道のりに立ちはだかる巨大な恐怖の岩は、神の恵みによって、溶け去ってしまいました。
神は、神の子らを完全に維持し加護しているということを、信頼することを学んだこの経験は、私たち家族にとって道を照らすかがり火であり続けています。それは、神の加護がどんな状況にあっても、最も安全で確実であるという確信の確固とした核心を形作り、これが、病気、やけど、骨折など多くの問題を速やかに癒すことを、繰り返し証明していることを、見届けています。神の善意とやさしい愛に、感謝します。
米国、カリフォルニア州、オリンダ