ねんねんよ、おころりよ、あなた(愛する子どもの名前)は天から支えられ、
無限の愛の腕のなかで、いつも安全に守られている、
人間のどんな誤りも、その高みからあなたを落とすことはできない、
神が、みなの父-母なのだから!
この子守唄を初めて聞いたのはいつのことだったか、思い出せないが、いつしか私の大好きな、子供のための夜のお休み前のお祈りとなった。私はこの歌を息子のために歌ったし、今はまた、息子の娘、私たちの初孫のために歌って聞かせている。彼女は、現在、両親とともに外国に住んでいる。この歌詞は私の考えにいつも深い慰めをもたらしてくれる、しかも、即座に、具体的に実感させてくれる。
私は、最近、この孫娘とテレビ電話で話したとき、「キラキラ星」を歌ってあげた。後で、何かもっと意味のある、霊的励みとなるような歌を歌ってあげたいと思った。この気持ちを夫に伝えると、彼は、息子が赤ん坊のときから幼少期まで、私がいつも歌っていたこの子守歌「ロッカ・バイ」の替え歌を思い出させてくれた。
最近、海岸へドライブに行ったとき、この祈りのこもった子守歌の歌詞が、口をついて出てきた。この歌詞を歌うとき、私はいつも平安と喜びがもたらされたことを思いだした。それは確かに、キリストの真理の働きによるものであり、この歌詞の背後にあるキリスト教科学の教えと一致する。キリスト教科学では、神は、すべての人をいつも愛している父-母であって、神自らの大切な子供ひとりひとりを、常に導き、守っていると教えられている。そしてこれは、聖書全体を通して、特にイエスの教えの中に見出される考えである。キリスト教科学は、このイエスの生涯と働きを基盤として樹立されている。
そして、私は、ひとつの経験を思いだしていた。それは、数年前、息子が北オレゴンの海岸沿いの200メートルほどの切り立った崖の頂上から落下したのだが、何の後遺症も無く、守られた経験である。当時、彼は大学を卒業し、仕事上の研さんを積むため、外国に行くことを考えていた。
その日、息子は砂丘の山の頂上に登った。それは美しいアメリカ西海岸にある、彼が特に好きな場所であった。ところが、突然、彼の足もとの地面が崩れて、彼は、急な斜面を滑り落ちてしまった。そこは、切り立った崖で、下は鋭い岩場と海だった。彼は、崖の斜面を滑り落ちながら、目の前で、大きな土の塊や、根こそぎにされた茂みや小さな木々が、塊となって落ちてゆくのを見ていた。そして、自分の落下を阻んでくれるようなものを探したが、何も掴むことができなかった。
そこで即座に、彼は祈り、自分の父-母なる神にすがった。幼いときから、家庭でも、キリスト教科学の日曜学校でも、常に現存するキリストの救いの力に頼るように教えられていた。詩篇の作者は「神はわれらの避け所また力である。悩める時のいと近き助けである」(46:1)と言っている。彼には、誰でも、いつでも、どんなに困難な状況にあっても、常に現存する神の救いに頼れるという信仰があった。
彼は最終的に崖の下の海岸の岩場に落ちて止まったが、神からの天使のメッセージに促されて、崩れた崖の壁面を再び登って行くことにした(詳しくは、下の彼自身の証言をお読みください)。彼は、そこで、砂丘の山を再び登っていくという挑戦をつづけ、次々と起こる地すべりをかわしつつ、大変な苦労をして、やっとの思いで山の頂上付近に近づいた。ところがそのとき、手の届くところに、砂丘に生えている小さな草の茂みがあり、それを掴もうという考えが浮かんだ。しかし、すでにいくつもの草の茂みを掴んでいたが、全部だめだったので、人間の理屈では、こんなちっぽけな草むらが彼の体重を支えてくれるなど、到底不可能と思いながらも、従順にその草やぶを掴んだ。そして、そのお陰で、彼はついに崖の頂上に自分を押し上げることができたのである。頂上には、友人がいて、事の一部始終を見ていた。彼は息子を助け、車で家まで送ってくれた。
この経験を通して、私たちは、最も大切な日々の祈りである「主の祈り」の実際的な力が正に証明されるのを目撃したのである。「主の祈り」の最初の方の言葉と、キリストの忠実な弟子であるメリー・ベーカー・エディが添えたその霊的解釈は、あの息子の窮地を救ってくれた考えを、より明確に映し出している:
天にいますわれらの父よ、
わたしたちの父母神、全き調和、
あなたの名があがめられますように。
敬愛すべき唯一つなるもの。
あなたの国が来ますように。
あなたの国は来ています;あなたは常にここにいます。
(『科学と健康―付聖書の鍵』、p.16)
アンドリュー・クリストファー・ミラー氏の
東京からの証言
母が私の体験の大筋を書いてくれたが、私は幼いときから、あの切り立った巨大な砂丘の山やその周辺が大好きで、よく登っていた。そして、あの時も、ためらうことなく登った。あの日、友人と私は砂丘の表側を登り、裏側を半分ほど下ったところで、私たちのすぐ上で、巨大な土の塊が崩れ、なだれ落ちてきたのである。
その巨大な塊が私にぶつかり、私を引きずり落とし始めるまで、私はその地崩れに気づかなかった。私は友人に大声で叫び、崩れ落ちる塊を避けろ、と言った。彼は素早く動いて、安全な所に逃げることができた。私は崖の斜面をおよそ15メートルほど引きずりおろされ、下は8メートルほどの断崖絶壁で、鋭い岩場の海岸に至っていることが分かった。
最初、本能的にこの地崩れに抵抗しようとしていたが、すぐにこの膨大な土の流れの前に、いかに自分がちっぽけで、ひ弱な存在であるかということに気づいた。その時、私は自分を完全に神の手にゆだねることにして、もはや闘うことを止めていた。
断崖の端の尖った角の近くに、鋭い葉の茂みがあった。それで私の内腿が切られたが、それが私を支えてもくれた。そして間もなく、その土の塊が私を断崖の際まで押しやり、私は下の岩場の岩の上に脇腹を下にして落下した。
私は、この切り立った砂丘の山を何とか登って山頂に戻るか、(滑り落ちて来た底から見上げて、それが決して簡単なこととは思われなかったのだが)、それとも、泳いで砂丘の反対側に出るべきか、迷った。私は、再び、神に向かい、賢明な導きを求めた、そして、この岩でごつごつした厳しい海に入り、しかも、今まで人が泳いでいるのを見かけたこともない海に入ってゆくのは、愚かしいことだと思った。そこで私は振り返って、切り立つ砂の山を見上げた。
そのとき、友人が逃げろ、と私に向かって叫んだ。その言葉に従ってとっさに脇に逃げると、砂丘の頂上にあった大木が、根こそぎ、私が落下してきた同じ狭い裂け目を転がり落ちてきた。それから、私は非常に狭い、険しい勾配の急な斜面を急いで登っていった。幾つもの地滑りを避けてのことだった。母は、急な斜面の頂上付近で、私が非常に危険な瞬間に
(肝心のときに)、砂丘に生える草やぶに手を伸ばして掴むようにという、祈りに導かれたことを書いているが、確かに、それが私をついに安全の地に導く救いとなったのである。
私が、祈りの中で神を求めたとき、私の考えに来た力強い言葉と、それに従った行動は、聖書の蔵言からの言葉「心をつくして主に信頼せよ」(3:5) であったが、それは、何年も前に日曜学校で覚えた言葉であった。この力強い、神性の命令が、私の意識を満たした、そして私は、半分だけ神に信頼し、半分は人間の理屈に従うことはできないという、実際的な真理を認識した。その瞬間、私は人間の理屈を捨てた。それは、そのとき私が感じたことが、正に、心をつくして神を信頼することを、象徴していたからである。砂丘に生える草むらに、手を伸ばし、自分の全体重をその慎ましやかな草むらに委ねるという考えが、即座に行動となった。間もなく、私は崩れた砂丘の斜面の頂上に安全に立つことができた。私はハイキングの友人と静かに喜びあった。私たち2人は、パニックに陥っていた危急の時に、神の守護と導きが確かに現存することを、目撃したのである。