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一日一日を、成功のうちに生きる

キリスト教科学さきがけ』2012年07月 1日号より

Christian Science Sentinel, Feb 27, 2012


時折、非凡な洞察力を持った人が現れる。絶えざる集中力、勇気、根気強さにより、その人は、物事を達成するために、全く新しい、はるかに改良された方法を、人類に残すのである。トーマス・エジソン、ヘンリー・フォード、そして、現代人としては、スティ-ブ・ジョブスなどが、その好例であろう。

我々は、その人たちがどのようにして成功したのだろうかと、好奇心を抱き、そのような人物の伝記を読み、彼らから学びたいと思う。私は、伝記を読むとき、その人物の人間としての人格に焦点を合わせるよりも、むしろその人物の稀に見る才能や特質の本質を見定めるとき、それはがその人のうちに働いている証拠であることを認識することが、有用であることを学んでいる。ただし、たとえ稀に見る才能の持ち主であっても、人間的に欠陥を持つ場合もしばしばあり、スティーブ・ジョブスも例外ではなかったことが、伝記作家、ウオルター・アイザックソン(Walter Isaacson)の著書「スティーブ・ジョブス」(Steve Jobs) のなかで存分に明らかにされている。

とはいえ、20年間、ジョブズが深く愛した妻が、アイザックソンに語ったことを考えてみてほしい:「非凡の才能を持つ多くの偉大な人たちのように、彼はすべての分野で非凡であったわけではない。彼は、人の立場にたって物事を考えられるような、社会的に洗練された上品さを備えてはいなかった、しかし、彼は人類により高い能力を与えること、人類が進歩し、そして人類の手に適切な道具を与えることを、深く願い、それに熱い思いを寄せていた」。彼は、この点において、なんと素晴らしい成功を収めたことだろう! 彼が自分の欠点を克服することについては、死の少し前、1980年代の仲間であったアン・バウアーズに次のような質問をして彼女を驚かせた:「僕は若いとき、どんな人間だった?」 彼女は答えた:「あなたは、ものすごく気性が激しく、性急だった、そして付き合うのが難しい人だったわ。しかし、あなたの洞察力は、人を惹き付けるものだった。あなたは私たちに言ったわね、『物事の行程こそが、報いをもたらす』と」。すると、彼は次のように答えた、「そうなんだ、僕は、その道すがら、確かにいろいろのことを学んだんだよ. . . 僕は確かに学んできた」。そのように、我々にとっても、それが可能なのであろう。

私は、アイザックソンの本を読んで、成功するための指針について、ここで述べ得るよりもはるかに沢山のことを学んだ。とりわけ、私には、その中でも、洞察力、集中力、勇気、根気強さが、最重要と思われ、しかも、それらの価値は、我々が霊的展望を持って考えるとき、更に意味を増すのである。

洞察力

洞察力という、これまでかつて想像したことのない可能性を見いだす能力、そして洞察したものを具体的に達成する能力を養うことは、実は、誰にでも可能なことなのである。なぜなら、使徒パウロがかつて認めたように、「あなたがたのうちに働きかけて、その願いを起こさせ、かつ実現に至らせるのはであって、それはがよしとされるところだからである」(ピリピ人、2:13)。の無限の知性と善意を、の創造したもののうちに表わすことが、の喜びなのである。しかも、はこの達成に、果てしなく成功されている。そこで、我々が日々先ず第一に、祈りのうちに自分の心をに開き、の方法が我々のうちに働くようにするならば、我々は大いに助けられる。

が、人(すべての人)について抱く洞察について、メリー・ベーカー・エディは、「人はの映像であり、似姿である;に可能なことは何でも、の反映である人にも、可能である」(Miscellaneous Writings, 1883-1896, p.183)と書いている。これを認識すると、我々は、自分の頭に浮かんでくる驚くほど新鮮な考えを、真剣に考察して、それらが達成され得ると確信することができる。

集中力

どんな仕事であれ、それに心を集中させることが重要である。総体的な目標と、今、手元にある具体的な仕事の両方を、明確に把握していると、心的、あるいは物理的じゃま物に対して、また、他人に任せておける責任を自ら引き受けてしまうこと、そしてまた、不健康な流れに道をゆずってしまうことに対して、「反対」を宣することができる。

キリスト教科学の癒しの実践について、エディ夫人は次のように述べている;「キリスト教科学も一般の規則の例外ではなく、一筋に努力しないでは、卓越することはない。射撃を散らしてしまい、同時に的を射とめることはできない(『科学と健康ー付聖書の鍵』、p. 457)。

特定の目標を決めないで、それを達成するために心を集中しようとしても、あまり何も達成することなく、いたずらに日々を費やしてしまう。一方、朝のわずかな時間に、一日の仕事について考え、優先順位を定めるならば、無駄な作業を大いに省くことができる。最初の優先順位が、その一日を通して、の導きに謙虚に耳を傾け、それに従うものとなっていれば、たとえ元の計画とは違っていたにしても、間違った歩みを避けることができる。

勇気

しかし、神性な影響のもとで優先順位を変更するには、勇気を必要とする。それは、をより信頼し、自己満足、あるいは自己不信を、無くしてゆくことを意味する。非常に高い目標をもって、イエスのところにやって来た、あの若者について考えてみよう。彼は永遠の生命を受けるために来たのである(マルコ10:17-25参照)。彼が、イエスに自分は忠実に十戒を守っていると言ったところ、イエスは、もっと多くが要求されているのだと述べた。イエスは彼に、持っているものをみな売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に宝を持つようになろう。そして十字架(自己犠牲)を背負い、キリストの霊的な道に従わねばならない、と言った。その若者は、失望して立ち去った。彼が後に勇気を見出したかどうかについては、分からない。

洞察力のある人は、しばしば、自分の心の内から来る懐疑心や、あるいはまた、他の人からの、そんな洞察は達成されるべくもなく、また達成され得もしない、あるいは、利益をもたらす形では実現され得ないに違いない、などという抵抗に攻め立てられる。私は、スティーブ・ジョブスのような革新的な人が、利益のために、自分の商品の品質における妥協を拒絶し、自分の洞察を守り通したことに、非常に元気づけられた。これは大変な勇気を必要とすることだった。彼と彼の会社は繁栄し、そしてその恩恵を全世界が被っている。

同様に、キリスト教科学の癒しを実践するについても、勇気が必要であり、その勇気は報われるのである。何か人類に価値あるものを達成するためには、人と違ったことをすることを恐れていてはならない。

根気

「最初、成功しなくとも、幾度でも、幾度でも、試みてみることである」という金言がある。トーマス・エジソンは白熱光の電球を作ることに成功するまで、100回以上の実験を繰り返したということを、数年前に読んだことを思い出す。私は、何年か前に、キリスト教科学の定期刊行物のために原稿を書くことに苦闘していたとき、エディ夫人が35年間にわたり、『科学と健康』を推こうし、改訂し続け、人類がその教えを理解して、実践できるように、その教えをより一層明解にするため、励んだことを熟考して、深く謙虚な気持ちになり、啓発されたことを覚えている。彼女は、「時間の使い方を改善せよ」という記事のなかで、次のような力強い忠告を与えている;「人生の成功は、何にも増して、根気強い努力、一瞬一瞬を改善してゆことにかかっている」(Miscellaneous Writings, 1883-1896, p.230)。

我々の考えを、神性のの果てしない洞察に広く開き、展開され得る可能性の実現に注意を集中し、無私の動機による勇気をもって前進し、日々たゆまぬ根気強さで励むとき、我々の一瞬一瞬は、大いに改善される。が我々の内で働いているゆえ、我々は必ず成功するのである。これは、何か価値あることに励んでいるとき、それには自分の人間的欠陥を克服しようとすることも含まれており、そしてまた、効果的なキリスト教の癒し手になろうと努力しているとき、誰にとっても真実なのである。

『さきがけ』の使命

1903年に、メリー・ベーカー・エディは、『キリスト教科学さきがけ』を創刊しました。その目的は、「真理の普遍的活動と有用性を宣言する」ことでした。ある辞書によると、『さきがけ』定義は「先発の使者」(先触れ、先駆け)ー 後に起こる事が近づいていることを告げるために先立って送られる者、使者」であり、『さきがけ』という名称に重要な意味を与えています。さらにまた、この定義は、私たちの義務を指し示しています。それは私たち一人一人に課せられた義務であって、私たちには、私たちの『さきがけ』がその責務を十分に果たしているか見届ける義務があるのです。この責務はキリストと不可分であって、まず初めに、イエスが、「全世界に出て行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えよ」(マルコ 16:15)と述べて、表明したものでした。

Mary Sands Lee (メリー・サンズ・リー)、Christian Science Sentinel, 1956年 7月 7日

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