人間が年をとっていくという信念は、否定し難いものとしてほとんど普遍的に受け入れられているが、私たちは、こうした信念を鵜のみにすることも、その犠牲になって生きてゆく必要もないのである。神の創造による人は、不滅である、したがって、人には年齢が無い。これが私たちの存在の真理である、そして、この不滅性の原理を俊敏に、また従順に守り、揺るぎなく理解を深めてゆくことにより、この真理を証明することができる。
数年前、私は、物忘れをするようになり、その上、物事の詳細,時には話の本題さえ思い出せなくなったが、こんなことは、以前は、いとも簡単にできたことだった。私はいつも、家族の中で,何でも完璧に覚えている人として、頼りにされていた。私は、実はそんな年齢でもないのに、これが年を取るという信念に関連するものであることに気づくまで、ある期間、この物忘れに悩まされていた。それ以来、年を取るという信念は、何らかの形で、私たちの人間経験のいずれかの段階で、きっと襲ってくるものであることを思い知らされている。
私は、直ぐに、メリー・ベーカー・エディ著の短編の一つ、Pulpit and Press の次の言葉 を熟考した:「さらに、次のことを知りなさい、あなたは、正しく考え、行動する主権者 たる力を備えており、何ものも、あなたのものであるこの遺産、あなたの生得権、をあな たから奪い去ることも、また愛の領域に不法侵入することもできないのである」(p.3)。私の胸は、嬉しさでいっぱいになった。正しく考え、行動することは、私が受けている遺産、つまり神、すなわち神性の心からの贈り物なのであり、何人も、何物も、いかなる手段、形においても、それを私から取り去ることができないものなのである。私は、これらの真理を理解し、適用するために、根気よく学び、また、エディ夫人の他の著作も勉強した結果、完全な、しかも恒久的な癒しを得ることができた。
私たちの存在の真実は、若くもなく、老いてもいない、ということである。私たちは、自らの霊的存在の真昼の太陽の輝きのうちに存在し、父-母神と一体であり、決して衰えることなく、生存している。神の不滅の子らとして、私たちは、生まれたことも、年を取ることも、老齢化することも、また、死ぬことも、できないのである。しかも、私たちは、これを日々実証してゆく絶対的な能力を備えている。しかし、私たちは、常にこの仕事を自らに課してゆかなければならない。
疑いもなく、今日、人類を襲っている、何よりも人を弱らせ、また何よりも有害である誤りの主張の一つは、たとえばそれを、「若者」、「中年」、あるいは「老齢者」と呼ぶにしても、一般に、人は年を取る、という信念である。意識的に、あるいは多くの場合は無意識のうちに、この油断ならない、しかも人を睡眠術にかける幻想を受け入れてしまうと、この幻想は、この一般的な信念から自分を守っていないすべての人を、手かせ足かせにして、制限を加える。このいわゆる年を取るという一般的な信念は、容赦なく、執ようにその暗示を押し付けてくる。この信念を真に支配下におき、加齢や老衰についての幻想に打ち勝つことを実証するためには、私たちは、「考えの戸口に門番として立ちなさい」と、メリー・ベーカー・エディが『科学と健康—付聖書の鍵』の中に書いている言葉を、より深い理解と堅固な精神をもって、守らなければならない。「肉体上に結果として現われてほしいと願う結論だけを是認すれば、あなたは自分を調和よく管理するであろう」(p. 392)。
そして、これらの年齢に対する執ような暗示に、しっかり抵抗してゆかねばならない、さもないと、その密かな誘惑や楽しみに取り込まれてしまうからである。たとえば、食品、映画館の入場券、交通費など、至るところに老人割引というものがある。言ってみれば、これらは、私たちが、老衰してゆくことを、まるで夕日が沈むように、認めさせようとして、常々誘惑しているようなものではないか。しかし、これらの「お祝儀」には、私たちが熟年に達すると、前ほどお金もなく、生活していくためにこのような割引が必要になってくるという、主張が伴ってきて、新たな誤りの暗示に直面し、それを乗り切っていかなければならないことになる。一つの誤りを受け入れてしまうと、直ぐつづいて、更に縛り付けようとする誤りに誘導されてゆくことにもなろう。
そこで、私たちが加齢の信念を克服するための鍵は、次のことを、私たち自身のために、また、他の人たちのためにも、見据え、理解し、主張することである、つまり、生命、神、そして神の映像であり、似姿である人には、始まりも、終わりもないこと;そして、人には、制限がなく、限界もなく、衰えもなく、そして、常に、どこにでも現存する善、すなわち神から、離れ得ないということである。私たちは、それどころか、常に、「無限の基礎から広がり、ますます高く上ってゆく」(『科学と健康』、p. 258)のである。
人は、神の映像そして似姿に造られている、すなわち、人は、神の完全な反映そのものなのである。人は、神の、つまり常に自らを現し、すべての力であり、常に現存し、そして無限なる神の、すべての善意、裕福さ、すべて整った、完全性、および永遠性を、備えている。神と人が不滅であるゆえ、年老いていく「滅びる」人間は存在せず、悪の主張も、完全や成長に向かう過程もなく、喪失も、欠乏も無い。これが真実なのである。神は、唯一であり、すべてである。無限のものを、どうして制限し得ようか?
神は、無限であり、永遠であり、年齢の始まりも、終わりもない。神は「生まれた」ことがない、そこで、私たちも、神の映像であり、似姿であるため、同様に、生まれたことが いのである。エディ夫人は、「決して年令を記録してはならない」(『科学と健康』、p. 246)と指示している。それと同時に、彼女は、私たちに、この地上で最も法に忠実な人であれ、とも指示している。だから私たちは、法的に求められたときには年齢を示すが、それ以外の場合には、その必要はないのである。彼女はまた、体にせよ「表われてほしくないことは、決して肯定」(『科学と健康』、p. 219)しないように、と指示している、なぜなら、それを認めてしまうと、人間の心が規定するもろもろの廃物まで、一緒に認めてしまうことになるからである。私たちは、この年齢を記録するな、という指示を、どれほどしばしば無視していることだろう? 子どもの誕生日も含めて、自分や他の人の誕生日を祝うときに、年齢を自分の意識に刻んでいるのではないか? 記念日については、どうだろう? ちょっとした静かな夕食会や、愛情に満ちた関係を祝う記念のひととき、また、愛する人の果たしたことを思い出したり、その人を偲ぶ会などについては、どうだろう? そんな折に私たちは、自分自身の、また他の人々の年齢を、無意識のうちに考えてはいないだろうか? これらはごく些細なことのようだが、年を取るという誤った考えを、ほんのわずかでも受け入れると、誤った信念にまつわるあらゆる事態を、受け入れることに繋がってゆきかねない。一度、誤りが掘り進む穴に落ちてしまうと、そこから抜け出すにはかなりの力強い祈りが必要となる。
私たちは、それぞれ、どんな年齢の段階にあっても、日々、年齢という信念に対処することができる。まだ早過ぎるということは、決してない。そもそも、制限とか、限界などというものは、どんな類いのものであれ、一体どこに存在しているのだろうか? それが実在すると、私たちが認めてしまう意識のうちにしか、存在しないのである。「すべてのものは、あなたがその実在を信じるほどに、実在する、そしてそれ以上のものではない」(Unity of Good、 p.8)と、エディ夫人は言っている。これが真理である。したがって、私たちは、自分の霊的理解の中で、自分の考えを管理する能力を持ち、そしてその結果、自分の経験をも管理できるのである。たとえ私たちが、年齢が体に表れることをいくらあれこれ考えたにしても、それを確認し、意識の中に受け入れて初めて、それが実在のものとなる。
「私たちは、自分が見る人に、自分が成る」。これほど真実を語った言葉はないであろう。だから、神の造った人のみを、見据えよう、つまり、完全で、正しく、堕落せず、健康で、豊かで、賢く、そして年令の無い人を、見据えよう、もしも、これら神らしい特質を、自分自身で現したいと願うならば。
私たちは、自分の意識の中に取り入れていることを、経験する。繰り返しになるが、これに対処する時期は、決して早過ぎることはなく、また、手遅れのこともない。だから、今、始めようではないか!