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法則を打ち破る

霊的論証と啓示のみが、生命は真に何から成り立っているかを明らかにする。

キリスト教科学さきがけ』2012年02月 1日号より

The Christian Science Journal, December 2010


スイスにあるCERN(欧州合同原子核研究機関)で行われている大型ハドロン衝突型加速器を用いた実験が、人々の関心を集めている。科学者たちは、素粒子を超高速で衝突させることで、いわゆる宇宙の起源と同じ環境が再現できると期待している。彼らは、この実験を通して、特に、一般に「の粒子」として知られているヒッグス粒子を見つけたいと願っている。それは、まだ誰も見たことがないものながら、なぜ物質に質量があるのか、そしてそれゆえ、なぜ宇宙は我々が知るような形で存在するのかを説明するために、その存在が必然のものとされている。

物理学者や数学者たちは、幾百年にもわたり、宇宙はどのようにしてできたのかという問への答えを探し求めてきた。ある人たちは、神性の秩序、または法則があり、それが目には見えないながら、宇宙の働きを制御しているという考えに同意している。

全時代を通して最高の科学者であるキリスト・イエスは、世界の大半の人々は彼を宗教家としてのみ考えているのだが、この法則は霊的なものであると理解していた。彼は、繰り返しこの法則を用いて、一般に受け入れられている物理的法則を破り、実在を明らかにした、つまり、神性の法則が、の宇宙との創造したものを支配していることを、明らかにしたのである。例えば、イエスは一晩中祈ったのち、引力や物質の法則を超越して、嵐に荒れ狂う海の上を歩いた。「マタイによる福音書」は、それを次のように伝えている:「そして群衆を解散させてから、祈るためひそかに山へ登られた。夕方になっても、ただひとりそこにおられた。ところが舟は、もうすでに陸から数丁も離れており、逆風が吹いていたために、波に悩まされていた。イエスは夜明けの四時ごろ、海の上を歩いて彼らの方へ行かれた」(マタイ 14 :23〜25)。

イエスは、その伝導の生涯を通して、神性の法則を実践しながら、常に、生命についての人間の理論に正面からぶつかり、そして、それらの理論を覆していった。霊的法則を理解し、適用して、有限の法則を無効にして、彼は食料を幾倍にも増して幾千という人々に食物を与え、必要は豊かに満たされるという神性の法則を明らかにした。また、彼の復活の際には、彼は、物質の根本的法則を破り、生命は不滅であり、永遠であることを示した。彼が具現するキリストは、罪、病気、死は必然であるとする物質の法則に縛られなかった。イエスは、普遍の原理、つまりは、至高であることを証明した。そして、「わたしを信じる者は、またわたしのしているわざをするであろう」(ヨハネ14:12)と約束した。

19世紀のアメリカに生きたメリー・ベカー・エディについて、多くの人は彼女を宗教家としてのみ考えているが、彼女もまた科学者だったのである。イエスの生涯とその功績を献身的に学ぶ者として、彼女は彼の約束したことを信じた。彼女は、イエスが、確立されている物質の法則を覆すことができたのは、科学的法則によると理解し、その法則を発見して、書き留めた。彼女は,物質が目に見える実在として存在するとすることは、間違いであることを証明した。彼女は、これらの規則をキリスト教科学と呼び、それを『科学と健康—付聖書の鍵のなかで発表した。

彼女の根本的で画期的な発見は、力強い「存在についての科学的声明」を含むが、この声明は、次のように物質の正当性を完全に否定し、がすべてであることを断言することで始まる:「物質には、生命も、真理も、知性も、実質もない。すべては、無限のであり、それが無限に具現されたものである、なぜならが “すべてにおけるすべてだからである(『科学と健康』,p.468)。

エディ夫人の生徒たちにとって、また現代に至る信奉者たちにとっても、物質の実在を論破することは、極めて尊大であり、無知にさえ思われるかもしれないが、正にそうすることにより、このような画期的な霊的推論ができるのである。この霊的で科学的な推論は、物質を基盤とする推論をはるかに超えて、心的または祈りの思考要因から物質を排除するという霊的思考の観点にまで、至らせるのである。それは、生徒たちに、霊的方法のみによって病を癒させ、資源の不足を解消させ、長期にわたる家族の不和を和らげ、失敗した事業を復活させ、精神科の薬を用いずに性格を変えるなど、さまざまの問題を解決させる。

イエスは、自分自身も含め、人々を死からよみがえらせて、唯一の永遠の生命のみが存在することを証明した、そして、その唯一の生命は、自らの被造物に与えているのであることを証明した。この霊的理解が、イエスに、そして、今日、彼の教えを学ぶ生徒たちにも、死という強固な証拠を突き破って、キリストにある永遠の生命の啓示を可能にしたのである。それは、神性の善意と無限のが現存すること、それを祈りによって常に得ることができることを、力強く示すのである。このキリストを通して私たちに伝えられる神性の善意について、イエスは、次のように言った:「わたしがきたのは、羊に命を得させ、豊かに得させるためである。わたしはよい羊飼である」(ヨハネ 10:10, 11)。

敬虔なキリスト者だったメリー・べーカー・エディは、彼女のキリスト教科学の理解により、すでに死んでいる人を、幾度となくよみがえらせることができた。彼女の伝記、Mary Baker Eddy: Christian Healer に、その一例が記されている。

1905年の冬のある日、エディ夫人は、彼女の家で働いていたジョージ・キンターに、長年の秘書であるカルビン・フライが、なぜ何度呼び出しても出勤してこないのか見てきてほしいと頼んだ。彼の部屋に行ってみたキンター氏は、彼が死んでいることを知った。フライ氏は、鼓動が止まり、冷たくなり、硬直していた。後に、キンター氏は次のように書いている:「このことをエディ夫人に知らせたところ、彼女は直ぐに彼の寝室に行き、即座に治療を始めた... 彼女は、一時間余りにわたり、非常に熱心に、雄弁な言葉で誤りを否定し、真理を断言しつづけたが、それは私がそれまで聞いたことがない力強いものであった... 私は、彼女がそのとき言ったこと、そのときの彼女の行動を、良く覚えている。例えば、彼女は次のように話した:

カルビン、目を覚まして、の造った人でありなさい! あなたは死んではいません。あなたは、それを知っています! あなた自身、幾度となく死は存在しないことを証明してきたではありませんか! カルビン、すべてが生命です! 生命です!! 死ぬことがない生命です。が私の生命であると言いなさい。私は自分で自分自身を救うことができる、と断言しなさい... 自分を奮い立たせなさい。その誤りである人間の信念と、恐怖に包まれた悪夢を、振り捨てなさい。の映像であり似姿である人についての、悪魔の嘘を信じるという惑わしに、負けてはなりません! あなたの人生の仕事はまだ終わっていないのです。あなたは、私にとって必要な人です。あなたは、私たちの祝福された大目的のために必要な人です。

生命には、自身と同様に死がないのです、なぜなら、生命であり、あなたはの霊的な所産なのですから。カルビン、死というものはありません、なぜならキリスト者であるキリスト・イエスは、死を廃棄したのですから、そして、この治療が誤りによって覆されることなどあり得ないからです。

「一時間後、カルビンは、少し体を動かし、とても低い声で、『呼び戻さないでください。私を行かせてください、私は疲れました』と言った。これに対して、エディ夫人は、『とんでもない。私たちはあくまでも、あなたを呼び戻しつづけますよ、だって、本当に、あなたはどこにも行ってはいないのですから。あなたは夢を見ているだけなのです、そして、今、その夢から目覚めたのですから、疲れてなんていませんよ... に感謝なさい。そのであり、全能なる善なのですから、あなたは、物質的感覚の主張することを認めたりはしないことを感謝しなさい...』それから30分ほどすると、カルビンは、完全に回復していた。そして、平安な夜を過ごした。翌朝、フライ氏は、通常通りエディ夫人の仕事に携わっていた」(Mary Baker Eddy : Christian Healer, Amplified Edition, pp. 256-258)。

この無限のが、物質的法則とそれがもたらす結果を覆すという霊感溢れる話は、数年後、私の母が転んで、けがをしたときに、大きな助けとなった。それは、父が亡くなって6週間後のことだった。両親はお互いにとても慈しみ合っていたので、父が亡くなって、母はもう生きていたくないと言っていた。父の死後、母は幾度も転んでいたが、この時ばかりは意識が戻らず、医師から、もう臨終が近いと言われた。ボストン郊外にある病院から、すぐ来るようにと、私たち姉妹に連絡があった。妹はボストンに住み、私はロンドンに住んでいたが、すべてをおいて、母の元へ飛んだ。私は、母が死ぬことはないということを知っていた。キリスト教科学の治療により,母は生きると信じていた。そして、それを少しも疑わなかった。

病院に着くと、母がベッドに寝ているのが見えた。幾つものコードで監視装置に繋がれていて、沢山の薬を投与されていた。妹も、薬の使用をすべて止めて欲しいと、医師らに頼むことに同意してくれた。医師らは、母の年齢、また快復の見込みがほとんど無いことから、医療器機などすべてを取りはずすことに同意して、母を安らかに逝かせようと思っていたようだ。しかし、彼女は死ななかったのである。

その日、私は、母の世話をすべて引き継ぎ、絶え間なく集中して祈っていた。時には、母のベッドの脇で静かに祈り、ある時は、声を出して、「ママ、目を覚ましてちょうだい。これはママの見ている夢ではないのよ。ママは、完全なるの似姿に創られたの完全な子なのよ」。それから数日のあいだ、私はこのように祈り続けていた。これが彼女の存在の霊的事実であることを心から確信し、これ以外のことは何も受け入れなかった。死という映像を拒否し、が彼女の生命であることを、繰り返し、繰り返し、宣言し続けた。彼女は、応じてこなかった。座って祈りを捧げているうちに、母が深い孤独、拒絶と悲しみのうちにあることに気づいた。祈りのなかで、私は、母を永遠のの高みに引き上げ、そこに母を保持した。

それから、私は少しも躊躇せず、自然に、靴を抜いで母のベッドに入った。私は、母をきつく抱いて、「あなたを愛しているのよ、ママ、私たちにママが必要なの。さまもママを愛しているし、ママを必要としているのよ」。母は、信仰心の篤い人だった。私は、彼女がよく知っているペルシャ語の賛美歌を歌い始め、が彼女の生命であり、神性のの現存が私たちを包む全空間を満たしていることを宣言した。

すると、病室の雰囲気が一変した。看護師たちが、なんて心温まる光景でしょうと言って次々に見にきた。母は、目を開けて、私がそこにいることに驚く様子もなかった。私の声をすでに聞いていたのである。彼女の意識は完全に戻った。医師は、母は話すことも食べることもできないだろうと言っていたが、母は、数時間後には、話していた。

イエスが、ヤイロの12歳の娘を死からよみがえらせたとき、彼女の両親に、まず、何か食べさせるようにと言った。マルコは、イエスが、「少女に食物を与えるようにと言われた」、と記録している(マルコ 5:43)。

母はおなかが空いていたが、食べ物が飲み込めない状態なので、特別のゼリー水しか与えてはならない、と言われていた。私は、たった今、母が医師の示した予測を全て破るのを見たところだった。私は、心の中で、彼女が完全であることを疑わなかった。私は、ピザを買い求め、ベッドを囲むカーテンを閉めた。母はピザを一気に平らげ、ペットボトルの水を飲み干し、すべて何の問題もなく飲み込んでしまった。多くの専門医がやってきて、彼女の奇跡の回復を見て感動していたが、私には自分の長年にわたるキリスト教科学の実践の経験から、これはの自然の法則の結果であることを知っていた。メリー・ベーカー・エディは、『科学と健康』の中で、「奇跡」を次のように定義している:「神性に自然であるが、人間的には学び取らねばならないもの;科学の一現象」(p. 591)。

母は、歩けなかったので,退院してリハビリセンターに送られた。医師たちは,彼女は恐らく2度と歩くことはできないだろうと言った。しかし、私は、が彼女の人生の物語を書いていることを知っていた。神性のの力のみが、彼女の意識の中で働いているので、彼女はの国に生きていて、常に、永久に意識があるのである。これが、彼女の存在の法則なのである。

翌日、母の朝の身支度を手伝いに訪れたときのことだった。洗面器を探すため、振り返っている間に、母は両足をベッドの端へ突き出して、歩行補助器に手を伸ばしていた。私がびっくり仰天してその場に立ちすくむのを尻目に、母は、ぐらつきながらも自分の足で立って、しっかりとした意識をもって洗面所に向かって歩いていた。

私は、母の日々の世話をするために、ロンドンを離れ、また、キリスト教科学の教師の仕事、講演、また癒しの仕事も離れる計画を立てていた。私の心は、とても重かった。ほんのしばしの間のことであったが、今まで一生懸命やってきたことが水泡に帰すのだと感じていた。しかし、それは一瞬のことだった、というのは、次の瞬間,私は、母を介護することによりキリストに仕え、母と居るこの場所にキリストが居ることを、心の中で確信していたからである。私は、すべてをに委ね、この時を喜び、すべての行動の中に喜びを見出していた。ここでキリストに仕えることが、恵みに満ちていた。これは私がキリストに与えられた使命であった。キリストは、十字架にかけられている時でも母親のことを忘れなかったではないか。彼は「愛する弟子たち」に母をゆだねたのだから、今、私が母を置き去りにすることを望んでおられるはずがない。私がこの一瞬を祝福すると、恵みが返ってきた。母は完治したのである。そして、私はそれまでやっていたすべてのことに戻ることができた。

それから約2年後、私は、ロンドンで自分の机に向かい祈っていた。突然、母のことが頭に浮かび、何とも言えない光と喜びが私の小さなオフィスを包んだ。母が死を迎えようとしていることに気付き、そして、あの素晴しい回復の時以来、母が得ている平安と幸福は、何ものにも妨げられることはないことを悟った。私は、シンシナチで母と暮らしている妹に電話をかけ、家に戻って母の様子を見てくれるように頼んだ。妹は、母が亡くなった直後に家に着いたのだった。

この母との経験は、キリスト科学が有効であることを私に証明してくれた、そして、真の「の粒子」は、目に見えない力、つまりキリストであり、が愛情を注いで創り保っている宇宙を、私たちの毎日の生活の中で垣間見させてくれることを教えてくれた。


マータ・グリーンウッドは、キリスト教科学実践士、教師、またキリスト教科学講演部員であり、英国、ロンドンに住んでいる。

『さきがけ』の使命

1903年に、メリー・ベーカー・エディは、『キリスト教科学さきがけ』を創刊しました。その目的は、「真理の普遍的活動と有用性を宣言する」ことでした。ある辞書によると、『さきがけ』定義は「先発の使者」(先触れ、先駆け)ー 後に起こる事が近づいていることを告げるために先立って送られる者、使者」であり、『さきがけ』という名称に重要な意味を与えています。さらにまた、この定義は、私たちの義務を指し示しています。それは私たち一人一人に課せられた義務であって、私たちには、私たちの『さきがけ』がその責務を十分に果たしているか見届ける義務があるのです。この責務はキリストと不可分であって、まず初めに、イエスが、「全世界に出て行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えよ」(マルコ 16:15)と述べて、表明したものでした。

Mary Sands Lee (メリー・サンズ・リー)、Christian Science Sentinel, 1956年 7月 7日

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