近所に住んでいるバッドさんは、何とも私の頭痛の種になっていた。ほんとうにそうなのだ。彼と、毎回、午後を過ごすごとに、私の腰痛が始まることに気がついた。挨拶を済ますやいなや、彼は、掛かりつけの医者のこと、友人、親せき、そして体の節々の痛みなどについて、次々文句を並べ立てる。
私は、いつも、彼との会話をできるだけ避けようとするのだが、一緒に地域の庭園でボランティアとして働き、入場者に挨拶したり、案内したりする仕事をしているので、そうはいかないのである。そこで、働く日を変えて彼に会わないようにしようとするが、残念ながら他に空いている日が無い。
私が、少し遅れていった時など、彼の口をついて出てくる最初の言葉は、「さてさて、80過ぎの「少女」ロリータちゃんが、お出ましになられた」、というものである。
私が、気を取り直して、「こんにちは、バッドさん。お元気ですか?」と言うと、彼は、すかさず、「ともかく、鼻炎で死にそうだ!」と始まり、鼻の不調についてくどくど述べ、「この迷惑な花ども」が、どれほど自分の健康を害しているか、という文句を繰り返す。そこで私が、遠慮がちに、他のボランティアの仕事をしたらどうですかと提案すると、彼は、「そんなこと出来ない!これは私の社会人としての使命だ!」と素早く言い返してくる。
私の怒りはいよいよ増して、腰の痛みもひどくなる。私は、「ああ、何という災難だろう!」と思う。「こんなに美しい庭園でボランティアをしているというのに、こんな風にバッドさんや腰痛に悩まされているなんて。私は、なんというキリスト教科学者なのだろう? バッドさんの悪い気性が、私の健康を害せるとでも思っているのかしら?」
私の前任者たちも、彼の性格を正そうとして失敗している。彼は、どうやら、皆の嫌われ者になってしまっているらしい。「自分を愛するように、あなたの隣り人を愛せよ」は、どこへ行ってしまったのだろうか?
しかし、待てよ、私が彼の性格をどうこうする必要はないのかもしれない。そして、もしかすると、ただ、私が彼をどう思うかを、変えてみる必要があるだけなのかもしれない。たとえば、「愛は愛に反映されています」(メリー・ベーカー・エディ著、『科学と健康』、p. 17)と、書いてある。これを考えてみてはどうか?
たとえば、彼の名前、バッド、「Bud」の意味の一つである「つぼみ」を用いて、心に浮かぶ美しい映像について考えてみたらどうだろう? 私は、家に帰って、机に向かい、コンピューターで類語辞典を検索する。
「Bud」:小さいもの、あるいはまだ未熟なもの。(なるほど。彼はまさにその両方だ。いい線を行っているのかな?)
「Bud」:開きかけた花。(これは、少し無理すぎる。でも、肯定的な考えであることは確かだ。)
「Bud」:殻の中で守られていて、成長しつつある芽、葉、花など。(これが、私のバッドさんなのでは? あの不愉快な言動は、弱点や不安を見せまいとする保身の殻なのでは? 彼がその不安を克服するため、私に何か助けられることがあるのではないか?)すると間もなく、私の腰痛がよくなっている、そして、笑いが芽生えてくる。
「Bud」:完全に発達していないもの。(そう、まだ改善の余地があるということ。それとも、改善すべきは、私のバッドさんに対する考えなのだろうか?)
それならば、私が彼に対して抱いているキリスト者らしからぬ思いを、「つぼみ」のうちに「摘み取る」ことはできないものか?
私が、つぼみ、「Bud」の意味と、彼との人間関係を示す定義の意味を、さらに発見してゆくと、その一つ一つの発見で、私の心は喜びはずむ。今、私は、一刻も早く庭園に飛んで行って、新しいバッドさんを発見することが、待ちきれない思いになっている。
そうだ、私は、彼の人格を現すすべての面で、今までとは違う解釈をして、それをいつも肯定的なものにしよう。
次の日、彼が、門番をしている仲間の一人を批判し始めると、私は、「彼の批判を『つぼみ』のうちに摘み取って」、代わりに、褒め言葉で返す。それが、なんと容易にできたことか! 私の「つぼみ」は、実り始め、そして、腰痛もほとんど消えている。
彼が何かの成果で得意げになっているときは、私は、「つぼみが木の枝の先で成長し、その花びらがふくらんで、今にも開こうとしている姿」を、心に描くことにしよう。私の「つぼみ」なるバッドさんは、立派な花になるのだ。(私は、自分の考えの変化に、思わずクックと笑ってしまう。そして、私の腰痛は、すっかり消えている。)
「何がそんなにおかしいのだ?」と彼は怒った声でどなりたてる。
「ここに来るのが、とっても楽しいなあと、思っていたのよ」と、私はにっこりする。
彼は、私を疑いの目で見る。嫌みになっちゃったのかな? 私は、彼に一番の笑顔を送る。「この芽を出し始めた友情に感謝しているの」と、私は、優しく言う。
そして、「彼の名前が、メルビン(変なやつ)でなくてよかった」と、私は一人、心の中で思うのだ。