私がキリスト教科学について初めて公の場で話をしなければならなかった頃の一つの経験を思い起します。シカゴのある病院で、看護師グループに話をした時のことでした。看護師たちは、たくさんの質問をしてきました。深く、突っ込んだ質問で、祈りがどのように信頼できるのか、またどのように癒すことができるのかなどについて、熱心に聞いてきました。最後に看護師の一人が、「どのように祈るのか、実際に示してくださいませんか。私たちのために祈ってくださいませんか」と、言いました。
私はそれまで、そのような質問を受けたことがありませんでした。私は大きく息をして、心を集中させるため、足下の床に目を落としていました。(おそらく、その姿勢は、祈るために頭を垂れているように見えたのではないでしょうか)。そして、私は、声に出して祈り始めました。
私は、祈りの中で心をこめて神に向かいました。キリスト教科学の実践士である私に助けを求めてこられたら、誰のためにでもするように、祈っていました。私は、看護師たちのために、神の愛の確かさ、すべてを知る神の加護、そして、彼らが神性なる愛、神と、密接な関係にあり、その関係が損なわれることがないことについて祈りました。更に、問題がいかに深刻に思えても、神の愛、また神の目に映る、その患者の愛らしさの事実は、変わることがないということを付け加えました。最後に、神の愛は全く無条件であることを強調しました。神はすべての知恵であり、この神が、私たちを神自らの子として、神を反映するように創造したのだから、私たちはみな、完全にその愛、知恵、そして生命を、今、この瞬間、反映しているのです。
私の祈りは、ほんの2、3分ほどのものでしたが、終わったとき、部屋中が静まりかえっていました。顔を上げると、みなが私に笑顔を向け、質問をした看護師が、「すばらしい祈りでした!」と言いました。
その時、おそらくこの方たちは、このような祈りをそれまで聞いたことがなかったのではないか、ということに気づきました。何人かの人は、おそらく、慰めを与えてくれる祈り、例えば、神に助けを求める祈り、神の仲介により事態を良くする祈りについて、聞いたことはあったかもしれません。しかし、この時の祈りは、それとはまったく違うものでした。この祈りが、この集まりの雰囲気をすっかり変えてしまいました。祈る前は、キリスト教科学について彼らが投げかけてくる質問に、懐疑心、疑い、不信感が感じられました。祈りの後、彼らの姿勢は変わり、彼らがキリストの精神について何かしら把握したように感じました。
私にとって、それは特別な瞬間でした、ただ、それは声に出してキリスト教科学の祈りを唱えたことによるものではありません。通常は、声に出して祈る必要はないと感じています。しかし、私は、これらの看護師たちを通して、キリスト教科学の祈りが持つすばらしさに改めて気づいたのです。残念ながら、この世界に住む多くの人々は、それを知らないのです。
このような祈りのすばらしさを心に留め、どのように祈るかを忘れずにいることは、大切なことではないでしょうか?
誰でも、どこにいようと、いつでも、神に助けを求めることができるということ、これは真実です。この願いを神に向けること、それが祈りです。それにしても、キリスト教科学は神性の法則の働きであるため、その教えも、活用も、秩序立っています。私たちは、科学的に祈る方法を学ぶ機会を与えられています、つまり、一貫して効果的に祈ること、キリスト・イエスが行った祈りに、より近い祈りをすることです。それが、看護師たちのために私が行った祈りです。つまり、これが、キリスト教科学の治療であり、ある個人のために、実際に効果をもたらすように考えて行う、具体的な祈りです。
キリスト教科学の発見者であり創始者であるメリー・ベーカー・エディは、その著書、『科学と健康—付聖書の鍵』の中で、治療として行う祈りについて、多く言及しています。「キリスト教科学の実践」という章の中で、数ページにわたり「心的治療の例証」(p. 410)を述べています。キリスト教科学の治療をどのように行うか、その詳細は、認定されたキリスト教科学の教師が行う、初級クラス指導の教課の一部となっています。
他のどんな場合にも共通することですが、これらの治療を継続的に行い、実践し、進歩する努力をしていないと、やはりさびついてしまったり、どのように治療をするかまったく忘れてしまったりすることさえあります。残念なことながら、クラス指導を受けた何人かの人から、「キリスト教科学の治療をどう行うか忘れてしまった」と悔やんでいるのを、聞いたことがあります。
もちろん、クラス指導の時に学ぶ教えの全体、それに、各人自らキリスト教科学を学ぶことの大切さに、取って代わるものはありません。とはいえ、キリスト教科学の治療の中に見いだされるいくつかの要素を、おさらいすることは有用でしょう。これらの要素は、治療を行うための、決まった手順や、公式や、台本などではありませんが、私たちの癒しを行う霊感に、一貫性と効果をもたらす基盤となります。
「原因から結果」の推論
ある時、私は、「神はあなたを愛しています。そして、私もそのために励んでいます」、という車のステッカーを見かけたことがあります。これはおかしい、と私は思いました。多くの人たちが、感じている共通した気持ちを表しているとは思いましたが、それは、キリスト教科学の祈りに対するアプローチとは全く対照的です。ある人たちは、物事が将来よくなることを願って祈るでしょう。ある人たちは、自分が善と悪の混在したものだと思いながら祈るでしょう。また、ある人たちは、祈りが実際的な効果につながるとは思われず、慰めのためだけに祈るでしょう。これらは、みな祈りについての考え方です。しかし、キリスト教科学は、私たちをもっと高いところへ導きます。
神への謙虚な嘆願は、決して間違いではありませんが、キリスト教科学の祈りによる治療は、神はすでに充分に私たちを祝福していることを認めます。追求すべきなのは、神の考えではなく、私たち自身の考えなのです! 私たちは、神がすでに私たちのためにしていることに、耳を傾け、理解することを学ぶのです。
エディ夫人は、科学的形而上学と、彼女が霊的あるいは正しい推論と呼んだものの重要性を、繰り返し強調しました。彼女は、次のように書いています:「心の科学において、原因から結果へと推論するとき、わたしたちは心を出発点とするが、この心は、それを表わす理念を通して理解しなければならず、その反対の物質から学びとることはできない」(『科学と健康』, p. 467)。
この「原因から結果」への推論は、まさにすべての治療の基本なのです。人間は、問題を見つめることから始めがちですが、霊的推論は、神を見つめることから始めます、つまり、神、すべての善の源、無限の知性と知恵、唯一の力と権威、永遠なる生命、永久に創造する魂である神、を見つめることから始めます。神から始めると、すぐに慰めを受けるばかりか、私たちの問題にはいつも付きまとう恐怖を、最も速やかに鎮めてくれるのです。
霊的原因、つまり唯一の心から推論してゆくとき、そこで示される言明は、常に霊的な事実であって、人間の観察や医学的な証拠、滅びる推論に基づいたものではありません。これらの霊的事実、つまり、唯一の神性なる原因に起因した霊的事実が、治療に織り込まれ、その「結果」であるあなたと私に、直接働きかけるのです。
神と人の本性
キリスト教科学が、神、そして、神の創造したものである私たちを定義するときに、もたらされる霊的な光を、私たちは決して当たり前のものとしてはなりません。イエスは「あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい」(マタイ 5:48)と言いました。この言明は、人は惨めな罪人であり、神も私たちをそのように見なしていると考える人たちを、当惑させるものです。
神は、不確かな、変化しやすい、気まぐれなものではありません。神は、人間のような性格、起伏の激しい性格をもつ神格だったり、愛しているかと思うと次の瞬間には怒ったりするようなものではありません。もし、神の愛を知り、神の知恵と善が不変で、無条件のものであることを知っているなら、その通りの神に祈ろうではありませんか。『科学と健康』は、神を「非肉体的の、神性の、至上の、無限の心・霊・魂・原理・生命・真理・愛である」(p. 465)と定義しています。
私にとって、神をこのような言葉や形容詞によって、考え追究すること以上に、祈るための良い出発点や、基盤は、考えられません。神のすばらしさ、力、栄光を描写するのにたくさんの方法がありますが、これら4つの形容詞と7つの同義語は、特に、意味が豊かで、私たちの天にいます父の本性を、疑念の余地のないものにします。
キリスト教科学は、人は神を反映していると教えます。神について真実であることはすべて、神の理念にも適用され、あなたにも、私にも、当然に適用されます。この地球上において決してそのようには思えないにしても、それゆえにこそ、このように祈る理由があるのです、つまり、霊的真実を断言し、私たちの真の本性は、神の完全な反映であることを理解することです。神の本性は、私たちが生きている物質的な世界に覆いかぶされ、隠されているように見えるので、この本性を断固として宣言し、その真価を認め、理解しなければ、今日、それを実証し,証明することはできません。
神に創造された子は、常に、無限の愛の完全な反映であり、真理と、永遠の生命を持ち続け、神性の権威によって生きているのです。すべての人が、神のすばらしさ、健康、知性の法則に基づいて生存しています。
問題を突きとめる
ある人々は、神がすべてであること、そして、患者と神との関係は決して損なわれることがないことを宣言したならば、それで治療は完了したと思うかもしれません。しかし、まだ終わってはいないのです! これでは、治療には不可欠な側面にまだ対応していないのです。つまり、問題を突きとめること、または、キリスト教科学で言うところの、考えの中の「誤り」を突きとめることに、対応していないのです。
メリー・ベーカー・エディは、あるとき、「即座の癒しをおこなう最良の方法は何か」と問われたとき、次のように答えたということです:「方法を教えましょう。それは、愛することです! ただ、愛を生きることです。愛になることです。愛し、愛し、愛するのです。愛以外には、何も知らないことです。すべて愛となりなさい。他には何もないのです。そうすれば、癒しが起こるでしょう。何でもすべて癒すでしょう、死人をもよみがえらせるでしょう。愛以外の何ものにもなってはなりません」(Sue Harper Mims, We knew Mary Baker Eddy, 1979, ed., p. 134)。
何と深淵なる答えでしょう! しかし、話はまだ終わっていません。上記の著者、Sue Harper Mims は、次のように続けています:「そこで、私にとってクラス指導の中で最も興味ある質問が出されました。誰かが、『でも、お母様、善と悪を見分けなければならないのではありませんか?』と尋ねたのです。彼女の答えは、おおむね、次のようなものでした:『そう、今のあなたの質問は、実は、私がキリスト教科学において、最も難しいと思うことなのです! そうです、あなた方は、悪を見すえて、告発しなければなりません。聖書は、イエスは、正義を愛した故に、神に選ばれた者である、と言っています。しかし、聖書はそこで止まっていません。聖書は、イエスは「邪悪を憎んだ」とも言っています! しばしば、私は、愛のみ、善のみを見ることができたら、知ることができたらと、どれほど願ったことでしょう。しかし、私は、あえてそうすることはありませんでした。私は、不正を暴露し、強く非難し、憎まなければならないのです』」(p.134)。
私にとって、この2番目の教えは、1番目の教えと全く同様に、非常に重要で深遠なものです。神と人への愛は、善と悪を識別することができたとき、初めて完全なものとなると言えるでしょう。残念ながら、エディ夫人が「一番難しい」と言ったことが、もっとも容易に忘れられてしまうようです。しかし、キリスト教科学は、悪にせよ、誤りにせよ、決して無視してはならないということを明白にしています。
同じように、私たちの治療は、正義を確信し、「正義を愛する」だけではなく、「悪を見すえて、告発しなければ」なりません。しかし、苦悩を癒し、無なるものにするために、私たちはその苦悩と長くかかわっている必要はないのです。実際、速やかに、効率よく処理するのが最良です。神のすべてであることを明らかにするために、神についてのさまざまな用語や派生語について考えていると、同時に、誤りが無力であり、無能であること、まったくの無であることも、明らかにされてくるのです。
「すべてを包含する神・善の力強い現実性」と共に、「物質的な生命・知性が無であること」が、キリスト教科学における「二つの主要点」であると、『科学と健康』は述べています(p. 52)。これら二つの主要点を含む祈りによって、神の創造した子をはっきり知ることができるのです、そして、この神の創造した子は、決して、状況の犠牲者になることはなく、また決して、恐れ、偶然、事故、伝染病、病気、死に、左右されることのないものです。
しかし、正しい用語や語句を使うことばかりが、祈りのすべてではありません。キリスト教科学の治療では、科学的な形而上学、霊的理解、そして、神性の霊感、これらすべてが一緒になって働き、しかも、それぞれが不可欠なのです。それらは、私たちの祈りの表現を、個々に導いてくれます。それらは、神性の心からのみ得られる洞察と識別力をもたらします。そして、常に完全な神と、完全な人、という結論に導いてくれます。
効果的に原因から結果への推論を適用すること、それを使って神と人の真の本性を見極めること、そして問題に科学的に対処することは、私たちが本当に努力しなければ、なかなか達成できないことです。それを十分に達成するためには、それに献身するための思考の鍛錬が必要です。しかし、それが重荷になるはずはありません。祈りを通して治療することを学ぶことは、展望を明晰にし、神性の実在を霊的に感知する能力を育て、霊的理解をより深めます。それゆえに、このような祈りは、変化をもたらし、また、活気づけてくれます。そして、あの看護師のクラスで私が経験したように、この祈りは、 キリストの素晴らしさと精神をもって、 祈る側と祈られる側の双方を祝福するのです。