つい最近、石井竜也さんという日本の有名なシンガー・ソングライターを取材した番組を拝見しました。彼は、一緒にプロジェクトに取り組むために、昨年地震と津波を経験した子供たちに会いに行きました。ちなみに、この番組は、各分野で活躍している人たちが自分の出身校を訪ねて、在校生たちと何かのプロジェクトに取り組むという趣旨のものでした。
この番組において、石井氏は、昨年の震災後、大変な経験をした子供たちに、彼らの印象や経験を書いてもらい、そしてその感想をまとめて、1曲の歌を作成するというプロジェクトに、取り組むことにしました。子供たち一人ひとりが、何らかの形で彼らの言葉を見つけて、そして貢献していましたが、ただ1人だけ、空白のノートを目の前にするばかりの少女がいました。彼女は、どうしても、自分の経験や思いをまとめる言葉が見つからなかったのです。この少女の空白のページは、どんな言葉が表現するものよりも、多くを語っていました。そして、石井氏も、言葉を失っていました。この子供たちがこの1年間経験してきたことの、重さ・深さを、改めて、身にしみて感じたからです。
時間が経つにつれ、石井氏は、子供たちが提出した言葉たちに曲をつけました。そしてその後、石井氏は、子供たちに、その歌のタイトルを何にしたい?と聞きました。すると、驚いたことに、あの空白のページの少女が、手を挙げたのです。彼女は言いました:「世界に、ありがとう」という、タイトルがいいと。
そして、その少女は重かった口を開いて、こう言いました:この歌を聴いて、地震直後に、他の多くの国々から救援物資が届くと直ぐ、その箱に、いろんな国の国旗が張ってあるのに気づいたことを、思い出したこと。事実、この少女のように、この子供たちの多くが、自分たちよりも大きな世界に包まれて、その中に存在していることを、実体験したのです。そして、外見も違い、言葉も違う、世界中のいろんな人たちが、彼らのことを、本当に、気にかけてくれたことを、生まれて初めて実感したのです。これらの救援物資の箱たちは、ある意味で、親善大使のような役割を果たしていました。そして、素晴らしいことに、子供たち自身も、それぞれの地域社会で、親善大使のように、振舞い始めたのです。
実際、テレビのニュースでは、震災後、上級生の学生たちが、お年寄りの世話をしている様子を、何回も目にしました。彼らは、高齢者の人々に、気軽に話しかけていました。また、体育館の固い床に、何日もあるいは何週間も続けて、寝泊りしたり、座り通しを強いられていた人々の、肩や背中をほぐしてあげたりしていました。
多くのインタビューでは、このような子供たちがどれだけ成長を遂げていたかを示していました。それは決して、大人の真似をしようとしているのではなく、ただ、無私の心で、他の人の必要としているものを、彼らは自然に、察知していたのです。このように、周りの人たちに無私の心で、何かを与えようとする能力は、一人ひとりの子供に、生来備わっているものです。なぜならその能力は、霊的な性質だからです:つまり、神の子供としての性質であり、神ご自身の、温かく調和に満ちた家族の一員であることの、表れなのです。
石井氏は、子供たちとの歌のプロジェクトについて、最近、コメントしました。私たちは、子供たちを守り、大切に世話をし、そして慈しみ、そして誉(ほまれ)あるものとして、子供たちに感謝すべきであるとの趣旨を述べていました。それは単に、子供たちが、過多のストレスや困難を、大人よりも容易に克服するというだけのことではありません。むしろ、この大変な経験をした子供たち自身が、困難のただ中にあってでも、それでも善なるもの、そして希望というものを、実に自然に見出す力を大いに発揮したことにあるのです。
石井氏のコメントを聞いて、私は、次の言葉を思い出しました。キリスト教科学を発見した、メリー・ベーカー・エディが著した、『科学と健康―附 聖書の鍵』という本の中の、言葉です:「子供には、子供なりの知識をもたせておくべきであり、そして子供は、人のより高い本性を、自然に理解してゆくことによってのみ、男性女性に成長するのでなければならない」(p. 62)。つまり、年を重ねていくことで、私たちは成長するのではく、人となりの霊的な本質に対する理解を深めていくことによるのです。番組の中での子供たちが、周りの人たちへ示した思いやりや対応は、すなわち、彼らが自らの霊的性質にもとづいて、自然に表現し行動に移したものの証拠だと思うのです。
また、石井氏のインタビューの中のコメントを聞いて、聖書の中のキリスト・イエスの言葉も思い出しました。それは、弟子たちに、彼らのうちで誰が一番偉いだろうか、と議論を持ちかけられたとき、イエスは、1人の幼な子を取り上げて、自分のそばに立たせて、こう言われたのです:「だれでもこの幼な子をわたしの名のゆえに受けいれる者は、わたしを受け入れるのである。そしてわたしを受けいれる者は、わたしをおつかわしになったかたを受けいれるのである。あなたがたみんなの中で、いちばん小さい者こそ、大きいのである」(ルカ 9:46-48)。
この子供たちが心からの感謝を、石井氏との歌を通して世界に述べると同時に、私は、この幼い子供たちにも、ありがとう、と感謝を述べたいのです。彼らは、幼な子でありながら、多くの被災地や、また、放射能の影響で実家を去ることを余儀なくされた多くの家族の人たちに、実に多くの喜びをもたらしてくれたのです。まだ具体的に見えていなくても、何かしらよいことを、日々の生活の中で、心待ちにして生きる子供たちを見ると、聖書の言葉を思います:「信仰とは、望んでいる事がらを確信し、まだ見ていない事実を確認することである」(ヘブル人への手紙 11:1)。子供たちは、たった今、この瞬間、という現在を、精一杯生きます。そして、善きもの、至福、そして感謝を、日々の中に数多く見つけます。子供たちは、周りの人々に何か善いものを与えたいと願い、また、本質的に、全ての人々への、無条件・無償の愛というものを、知っています。彼らは、全ての人々が、同じように、善きものを得たり経験してほしいと、願っているのです。
だから、ありがとう。それは、日本にいる子供たちだけではなくて、世界中の子供たちみんなに、ありがとう。あなたたちは、ちっちゃいかもしれないけど、みんなの心を照らす、とっても明るい光なのです。そして、あなたたちのおかげで、大人たちだってもっと、一致団結できるのだから。時には、この世界の中で、一番ちっぽけに思えるかもしれないけど。でもね、あなたたちが、実は、世界一、でっかくて、偉大なのです。忘れないでね。