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霊の侵されない機能

キリスト教科学さきがけ』2018年04月 3日号より

Christian Science Sentinel 1961年 4 月 15日号


ある日、一人のキリスト教科学の生徒が電話をかけようとして、2度ほどダイヤルをまわしたのですが、受話器から何の音も聞こえてきませんでした。機械が故障しているのだと思って、同僚に知らせたところ、同僚は耳に受話器をあてると、「電話は故障していませんよ」と言いました。 3度目に試してみて、何も聞こえなかったとき、彼女ははっとしましたが、同僚には何も言いませんでした。一人になるとすぐ、キリスト教科学の実践士に電話をかけ、もう片方の耳で聞きました。

実践士は、キリスト教科学定期刊行物のある記事から、いくつかの文章を読んでくれました。その主な点は、音を聞くのは、「聞く耳」である、すなわち霊的真理に調子を合わせた耳である、ということでした。実践士はまた、耳は霊的理解に関わるということを、キリスト教科学は明らかにしていることを、彼女に思い起こさせてくれました。

彼女が、霊的に聞きたいという願いを育みながら、神の癒しのメッセージに耳を傾けていると、やがて彼女の聴力は正常に戻り、そのまま変わることはありませんでした。

この場合に癒しをもたらした霊的真理は、実は、普遍的に応用できるものなのです。Science and Health with Key to the Scriptures 『科学と健康ー付聖書の鍵』(p. 488)の中で、メリー・ベーカー・エディは、次のように書いています:「心のみが、機能、知覚力、理解力をすべて所有している」。また、同書の162ページには、「霊の侵されない機能は、物質の状態なしに存在し、またいわゆる物質的生存に関する偽った信念なしに存在する」、と書かれています。

人のすべての機能は、心、霊、からくるものですから、霊的であり、永遠に完全に機能しています。思考、記憶、視力、聴力は、有機的物質、あるいは体の構造とされている物質に、依存するものではありません。すべての機能は、「すべてを見る」、「すべてを知る」無限の心、永遠の生命によって、人に現されています。従って、人は、鈍感、混乱、忘れっぽさ、不完全な視力、不完全な聴力などを、現すことはできないのです。私たちが、これらの真理を、明確に理解すればするほど、またこれらの真理を完全に受け入れれば、受け入れるほど、私たちの現在の知覚力は、より鋭いものとなります。

魂の栄光と輝きは、すべてのものに光を当て、私たちがはっきりと見えるようにします。視力はまったく霊的なものですから、物質に助けられることも、また妨げられることもありません。人々は、来世においては、完全に見たり、聞いたりすることが、きっとできると思っています。それなら、なぜ、今、ここで、完全な心の機能を実証しないのでしょうか。天国は、どこか遠くにあるのではなく、神の国は私たちのただ中にあることを認識すると、完全性が具体的に現れることが促進されます。「すべてを見る」心、神は、常に現存することを実感すると、完全な視力の実証が可能となります。

真の音は、魂の知覚によって伝えられることを理解することが、聞くことを真に助けるのです。

人は、心の知性が様々の形に表現されているのを、反映しているのであることを知ると、限りない能力を現すことができ、思いもよらない可能性が開かれてきます。

わがまま、反抗心、あるいは強情な心が、機能を害する根元になっているのかもしれません。反抗心は、それが外に表されたものでも、内に隠されているものであっても、霊的真理、あるいは霊的法則に対する、抵抗なのです。これは、神がエゼキエルに、次のように告げたときに意味したことではないでしょうか:「人の子よ、あなたは反逆の家の中にいる。彼らは見る目があるが見ず、聞く耳があるが聞かず、彼らは反逆の家である」(12:2)。

難聴は、改心させられることを恐れて、聞きたくないのかもしれません。かすんだ目は、何か物質的なものを失うことを恐れて、霊的理念を見たくないのかもしれません。ぼうっとしたり、忘れっぽい意識は、生まれ変わること、また物質的な楽しみを失うことを恐れて、記憶したくないのかもしれません。

霊的に見たり、聞いたりしようと試みるだけでは、十分ではありません。私たちは、霊的に見たり、聞いたりすることを、心から願わなければなりません;私たちは、物質主義を捨て去ることを願わなければなりません。感覚は、絶えず使うことによって、あるいは時の経過によって鈍るのではなく、物質的な考えによって鈍るのです。年齢そのものではなく、自分の価値を正しく理解していないことによって、また年齢についての信念によって、しばしば人の視力が損なわれていることは、明白です。

神は、「すべてを見る」、「すべてを知る」、知性です。イエスは次のように言いました、「子は父のなさることを見てする以外に、自分からは何事もすることができない。父のなさることであればすべて、子もそのとおりにするのである」(ヨハネ 5:19)。完全なる神が、すべてのものを知り、すべてのものを見ています、これは、神がすることであり、人はそれらを反映するのみです。私たちが、完全な神と、この神の完全な理念である人とは、真に何を意味するのか、これを把握するに応じて、視力、聴力、記憶力、その他のどんな機能でも、損なわれたり、不完全であったりすることはなくなるでしょう。

不滅の機能を実証する方法が、キリスト教科学賛美歌144番の初めの2節に、非常によく表されています: 

神性の愛の雰囲気のなかで

私たちは、生き、動き、呼吸している;

人間の目には見えなくとも、

欺くのは、感覚なのだから。

 

人間の感覚は、破り捨てよ、

永遠の心の素晴らしさに

光を当てたいと願うなら、

においてこそ、感覚は消え去る。

『さきがけ』の使命

1903年に、メリー・ベーカー・エディは、『キリスト教科学さきがけ』を創刊しました。その目的は、「真理の普遍的活動と有用性を宣言する」ことでした。ある辞書によると、『さきがけ』定義は「先発の使者」(先触れ、先駆け)ー 後に起こる事が近づいていることを告げるために先立って送られる者、使者」であり、『さきがけ』という名称に重要な意味を与えています。さらにまた、この定義は、私たちの義務を指し示しています。それは私たち一人一人に課せられた義務であって、私たちには、私たちの『さきがけ』がその責務を十分に果たしているか見届ける義務があるのです。この責務はキリストと不可分であって、まず初めに、イエスが、「全世界に出て行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えよ」(マルコ 16:15)と述べて、表明したものでした。

Mary Sands Lee (メリー・サンズ・リー)、Christian Science Sentinel, 1956年 7月 7日

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