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勇気と癒し

キリスト教科学さきがけ』2018年08月 2日号より

Christian Science Sentinel, March 27, 2017


ダビデとゴリアテの話は、いつの時代にも多くの聖書の読者たちを啓発し、力づけてきました。この物語は、特に祈りによって癒しを求めている人に大変価値あるものですが、癒しにおいて勇気がどれほど大切であるかについて、多くのことを教えてくれるからです。 

ゴリアテは、「サムエル記上」によると、目前に山のようにそびえ立つ、巨大な敵兵でした。頭からつま先まで武具で固め、闘志満々で、イスラエル軍に、この私と闘う者がいたら誰でも出してこい、と挑戦してきました。「イスラエルのすべての人は、その人を見て、避けて逃げ、ひじょうに恐れた」(17:24)のです。

みなが恐怖におののいているなか、ただ一人、羊飼いの子ダビデは違いました。サウル王は剣と重い鎧を彼に与えましたが、それらすべてを辞退して、ダビデは石投げ(パチンコ)と5つの滑らかな石だけを使いました。ダビデはゴリアテに言いました:「おまえはつるぎと、やりと、投げやりを持って、わたしに向かってくるが、わたしは万軍の主の名、すなわち、おまえがいどんだ、イスラエルの軍の神の名によって、おまえに立ち向かう」(17:45)。

そして、聖書が告げるところによれば、ダビデは巨人に向かって急ぎ走り出て、一つの石を取り、石投げで投げて彼の額を撃った。「石はその額に突き入り、巨人は地に倒れた」(17:49)のでした。

この闘いの勝敗を決める鍵となったのは、各々が選んだ武器でした。ゴリアテが携えてきた剣と槍とは異なり、ダビデが小川で集めてきた小石は、何の変哲もない、どこにでもある、誰にでも手に入るものでした。しかし、これらの石は、正確に、確信を持って投げられるとき、無敵の武器となるのです。

この物語を解釈する一つの見方は、これが2人の男たちの間の闘いではなく、2つの相反する思考の闘いであるとして見ることです。ゴリアテは無法な物質主義を表し、その邪悪な目的とその力を誇ります。ダビデはキリストを表し、悪を打ち負かすためにの力に頼ります。

ダビデの滑らかな石は、霊的事実を象徴するものと考えることができます。小さな子どもであっても、についての事実を学ぶことができます。が全能であること、常に現存する善意であること、また、が人に与える愛は決して失敗しないこと、そしてこれらの真理は、に似ないもの全てに対して、力強い守りとなることを、学ぶことができます。

そして、若いダビデが実証したように、私たちは、病気、不正、欠乏など、私たちを脅かす悪に対して、勇気をもつて立ち上がり、明確に焦点を定めて打ち破り、そして、これらが真理の力で破壊されることを、見届ける必要があります。私たちは、について、またの完全な創造について、どれだけ沢山の事実を学んでいるかは問題ではないのです。それらの事実を、実際に活用しなければ、何の役にも立たないのです。私たちが悪の前で弱気になっていたら、悪は私たちを脅し続けることでしょう。

しかし、ここに悪について学ぶべきことがあります。悪は、恐ろしく見えたり、聞こえたりするかもしれませんが、それはあくまでも惑わしに過ぎないということです。その大騒ぎの陰には、真の実質は何もないのです。すべて、欺きなのです。聖書は次のように告げています:「あなたは目が清く、悪を見られない者、また不義を見られない者である」(ハバクク1:13)。キリスト教科学は、が唯一の創造者であり、どんな種類の悪をも創造しなかったので、悪は本当に私たちに害を与えることはできないと、教えています。悪に対して、この霊的な事実を実際に生かし用いるなら、悪がどれだけ力を持っているように思われても、悪は地に倒れるのです。

数年前のことですが、私は胸が重苦しく詰まるような感じがして、また体が弱っているように感じて、何週間も苦しんでいました。熱心に勉強し、祈りつづけて、多少よくなっていましたが、通常のように活動することも、仕事に行くことも、できませんでした。私は自信を失い、恐怖を覚えていました。イスラエルの臆病者たちが、ゴリアテの声に怯えていたように、これはあまりにも大きな問題で、自分には克服することができないと思い始めていました。

ある朝、キリスト教科学の聖書教課を読んでいたとき、友人が電話をしてきて、スーパーマーケットに車で連れて行ってあげましょう、と言ってくれました。これは、がこの一歩を踏み出すように私を促しているのだと感じて、彼女の親切な誘いを受け入れましたが、この外出を楽しみにすることはできませんでした。ただベッドから起き上がるだけでも大変なのに、食料の買い出しに行く気力などとてもないと感じていました。

この問題で、祈りによる癒しの治療をお願いしていた実践士に、「私には、今、買い物にゆくなど、とてもできそうにないのです」と、言いました。そして、自分がこの病気をどれほど恐れているか、恐怖心がどっと口をついて出てきました、そして最期に、もし、この問題を癒すだけの霊的理解が自分になかったら、どうなってしまうのでしょうと、言いました。

実践士は、癒しにおいて、問題の大きさ、あるいは、私たちの理解の度合いは、問題ではないのです、と言いました。そして、は無限ですから、たとえどんな形を取っているように見えても、悪には限りがあり、実在しないものです。たとえその問題が、体を衰えさせる病気で、どれほど大きく、恐ろしいもののように見えても、それは幻想に過ぎず、真実ではありません。しかし、悪を滅ぼすには、しっかりとそれが非実在であることを確信し、それに説き伏せられることを拒否しなければなりません、と言いました。私たちは、自分が霊的真理について確かに理解することに従って、思考し、行動する勇気を持たなければなりません。

「あなたが、朝、出かける準備をしているとき、鏡を見て『病気は実在しない』と宣言してください。それが真実です。あなたはそれが真実であることを知っているのです。あなたは、の権威をあくまでも主張することができます。病気には、あなたに反対する権威はないのです」、と実践士は言いました。

私には、ほんの短い時間でも、立っていることが大変でした。それでも、実践士が言う通りにしなければならないという強い思いで、私はなんとか立ち上がり、洗面し、服を着ました。そして、繰り返し、「病気は実在しない」と宣言していました。この明確な真理の言明が、その日の私にとっての「滑らかな石」でした。恐怖心が、もうこれ以上進む力がないと告げてくるたびに、私は神性の真理で突き進み、真理が恐れを撃ち倒してくれました。私が、進んで敵を正面から見据えて、それを滅ぼす真理の言葉を声に出して言うとき、私の勇気は力を増し、そして、体力も増しました。

友人が車で迎えにきてくれたときには、買い物に行ける力を充分に感じていました。そして帰ってきたときには、更に元気になっていました。私は、食料品と一緒に、次のメリー·べーカー·エディの言明が見事に示す力強い洞察を、携えて帰ってきたのです:「病人に、決して、体力よりも勇気があるなどと告げてはならない。むしろ、体力は勇気に比例するものであると告げるべきである。もしこの偉大な自明の理を、病人に自覚させることができたなら、無理な力の出し過ぎ、または興奮状態の反動などを受けることはないであろう」(『科学と健康』、p. 417)。

それから数日の間、私は霊的な事実であるから与えられた人の完全性について考えながら、病気の症状に挑戦し続けました。週末には、胸の重苦しさをほとんど感じなくなり、遠方の地で開かれる重要な会議に飛行機で行けるほど、十分な力をつけていました。空港では、走って乗り継ぎの飛行機に間に合わせることさえできました。翌週、私は仕事に復帰しました。

それから数ヶ月の間、時折、軽い症状が現れることがありました。

私は、自分自身が、そのような症状に怯えたり、悪化するかもしれないと心配するときに、そのような症状が現れるということが分かりました。しかし、私が恐怖心を退け、霊的真理を求めてに向かい、病気の症状に対抗すると、症状は消えてしまいました。と人についての真理であると私が知るものを、固守することを学んだとき、私の病気に対する恐れは無くなりました。そして、それがその後再び戻ることはありませんでした。

これは、次の『科学と健康』の中の教えが有効であることを証明しています:「キリスト教科学のもろもろの事実を心にとめなさい、― すなわちであり、したがって病気になれないこと;物質と呼ばれるものは、病気になるはずがないこと;すべての原因力は心であり、霊的法則を通して活動すること、などである。さらに、真理のゆるぎない理解を固守しなさい、するとあなたは勝利を得る」(p. 417)。

たとえ、私たちが、どのようなゴリアテに直面しようとも、それが人間関係や経済的な問題、あるいは、病気であろうとも、私たちは真理で、それにす早く立ち向かうことができます。勇気をもって、私たちはの主権の上に立脚し、悪は私たちに対抗する権限を一切持たないことを知ることができます。そして、ダビデがしたように、を信頼するとき、私たちは勝利するでしょう。

『さきがけ』の使命

1903年に、メリー・ベーカー・エディは、『キリスト教科学さきがけ』を創刊しました。その目的は、「真理の普遍的活動と有用性を宣言する」ことでした。ある辞書によると、『さきがけ』定義は「先発の使者」(先触れ、先駆け)ー 後に起こる事が近づいていることを告げるために先立って送られる者、使者」であり、『さきがけ』という名称に重要な意味を与えています。さらにまた、この定義は、私たちの義務を指し示しています。それは私たち一人一人に課せられた義務であって、私たちには、私たちの『さきがけ』がその責務を十分に果たしているか見届ける義務があるのです。この責務はキリストと不可分であって、まず初めに、イエスが、「全世界に出て行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えよ」(マルコ 16:15)と述べて、表明したものでした。

Mary Sands Lee (メリー・サンズ・リー)、Christian Science Sentinel, 1956年 7月 7日

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