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青少年のコラム

決断に悩んでいますか?

キリスト教科学さきがけ』2018年04月25日号より

Christian Science Sentinel 2017年5月22日号より転載


大学を出て間もなく、私はある道徳的な問題の決断に迫られていた。特に事の善悪がはっきりしていないように思われて、自分はどうすべきか、答えを求めて苦闘していた。その状況下で、自分には正しいと思われる選択に、が「許可」を与えてくれることを私は待っていた。から「イエス(よろしい)」の答えが聞こえてこなかったが、「ノー(ダメ)」の答えも聞こえてこなかったので、私は自分が正しいと感じたことを行なった。

だが、振り返ってみると、自分が最善の決断をしたとは思われず、あの時、なぜははっきりと、大きな赤信号を出してくれなかったのだろうかと、ときどき思いめぐらしていた。私が、それを聞く必要があった時に、神の「だめ!」は、どこに行ってしまっていたのだろうか。

この問題や、その後、他の問題の決断のために祈ってきて、私は2つのことを学んだ。第1に、自分はをもっとよく知らなければならないというとだった。は、誤ることがない神性原理であることをより良く理解するにつれ、は私たちが直面する問題の決断に対して、「イエス」とか「ノー」とかの答えを、ポンと差し出してくれるのではないということが分かってきた。そうではなく、祈りが、原理の働きはどれほど揺るぎなく、信頼できるものであるか理解させてくれる、そして、その理解によって私たちの行動は、その原理の正しい道に沿うように導かれる、ということを学んだ。その結果、良い決断が下されるのである。

第2には、これはとても大事なことであるが、自分が決断を下すときの心構えが非常に重要だということである。正しい答えが得られるかどうかは、特に決断できずに迷っているときには、私自身の求め方によって、大方決まってしまうのである。 

つまり、導きを求めて祈るときに、私たちが何を考えているのかが、非常に重要なのである。私たちは本当に心を開いて、その答えが何であろうと、自分が願っていることを差し置いてでも、の声を聞いて受け入れる用意があるだろうか。たとえそれが全く予期していないものであっても、進んでの導きに従う用意があるだろうか。

自分が何を願っているとしても、の声を聞き、に従うことを、何よりも大切に考えているだろうか。周りの人たちがしているのと同じことがしたいとか、一時的な満足感を得たいとか、容易な解決策を選びたいとかよりも、神性原理に従うことが、何よりも重要だと考えているだろうか。 

心を開いていること、進んで行なうこと、謙虚であること、そしてまた、を愛し、に仕えたいという願いが、ジレンマに陥っている状態から抜け出して、自分にとって最善の道を、深く、確実に知るための、特質であることが分かってきた。そして、面白いことには、時には、その答えが具体的なメッセージとして現れることもあるが、多くの場合は、このような特質を、私の思考の中で最重要のもの、私の心からの願いとしていると、正しい方向に進む弾みがつくのである。努力せずに、自然にその方向に導かれてゆくのである。 

まさに、そういうことが、最近、決断できず、どちらの道が正しか分からず右往左往していたときに、起こったのである。それは、道徳的な問題ではなかったが、もし誤った選択をしてしまうと、良くない結果が起こるように感じていた。

今回、私は祈りながら、の許可を求めたり、「イエス」か「ノー」かの答えを求めたりはしなかった。私はただ、に心を開き、を尊び、に最高に仕えることができる道に導かれていると感じることができるようにと祈った。これはあまり効果的ではない努力のように聞こえるかも知れないが、過去の経験から、に仕えていることが、私を最も幸せに感じさせ、自分に満足感を与え、自分の心の大きな安らぎでもあることが分かっていたので、今回も自分がそれを求めているのであることを知っていた。

答えを即座に得ることはできなかったが、それは、が私の祈りに対して沈黙しているのだとは、考えなかった。なのだから、私が必要としている導きが必ず示されると、信頼していられることが分かっていた。その間、私はより深く、進んで、の声に耳を傾けること、従順であること、をもっと純粋に愛すことに励んでいた。そのために、自分自身の願いや、自分が正しいと思うことを推し進めたいという願望を沈黙させ、私の個人的な計画よりも、自分はを愛しているということを、確認し続けていた。

今度の場合、私はその答えを全く予想外の方法で得た。買い物に出かけていて出会った人が、私がずっと思案していた件を口にしたのである。彼女が話すことを聞いていて、私が進もうと考えていた道は、100パーセント、完全に、はっきりと、私にとって良いものではないことが分かったのである。なんの苦悩も、後悔もなく、私は心穏やかに、また確信を持って、すべてを断念することができた、そして以後、ただの一度も、惜しいことをしたと感じたことはない。

これがの方法なのである。私たちが、謙虚にに近づいて見出した答えは、素晴らしく、全く正しく、もっと良い方法があるはずだったと感じることが絶対にないのである。実際、私たちのへの愛が、私たちの決断を支配するとき、私たちは単に導きや答えを得るのではないということが、分かり始めてきた。私たちは、溢れんばかりのの恵みを経験し、私たちには考えられないほどのの善意が、私たちに降り注がれていることを、実際に経験するのである。

『さきがけ』の使命

1903年に、メリー・ベーカー・エディは、『キリスト教科学さきがけ』を創刊しました。その目的は、「真理の普遍的活動と有用性を宣言する」ことでした。ある辞書によると、『さきがけ』定義は「先発の使者」(先触れ、先駆け)ー 後に起こる事が近づいていることを告げるために先立って送られる者、使者」であり、『さきがけ』という名称に重要な意味を与えています。さらにまた、この定義は、私たちの義務を指し示しています。それは私たち一人一人に課せられた義務であって、私たちには、私たちの『さきがけ』がその責務を十分に果たしているか見届ける義務があるのです。この責務はキリストと不可分であって、まず初めに、イエスが、「全世界に出て行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えよ」(マルコ 16:15)と述べて、表明したものでした。

Mary Sands Lee (メリー・サンズ・リー)、Christian Science Sentinel, 1956年 7月 7日

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