私たちは、何か悪い状況下にあるとき、実際、それに抵抗する術はないのでしょうか、それとも、神、神性の生命を意識して理解することにより、自分の視野、自分の目に映るもの、を調整して、その悪い状況を変えることができるのでしょうか。何年か前、私は実際に、自分の考えを変えることによって、事態が改善されるという経験をしました。
私は、ある朝早く、人気のない道で車を走らせていたとき、森林公園の中のピクニック広場にある休憩所で休憩することにしました。駐車場に入っていくと、そこに一台だけ車が止まっていて、中に男性が一人乗っていました。私は、なにか非常に不安な気持ちにかられました。その不安感があまりにも強かったので、私は車の中で、ここに駐車すべきか、それともこのまま走り去るべきか、どちらが正しい行動だろうかと祈りました。まもなく、私は心の平安を得たので、車から出ることにしました。すると、その男性も車から降りてきたのです。彼は、私の方に歩いてきて、異常なほどそばまで来てそこに立ち、私に話しかけてきて、私が彼の後をつけてきたと言うのです。しかし、しばらく走ってくる間、私の前に走る車を見なかったので、それは本当ではありませんでした。
私が車の後ろに回ると、その男性もついてきました。彼は、私にひっきりなしに話しかけてきましたが、私は彼の言うことに注意を向けませんでした。私は、祈りながら心を神に向けて、神がすべてであり、神がこの場に現存することを、心の中で確認していました。次に、私は神の被造物を見つめること、神に似ないものは存在し得ないということを、心の中でしっかりと考え続けていました。私は、ふと、目の前に広がる景色に目を向けるように促され、思わず、「今日は、晴れて、きっとすばらしい日になるわ」とつぶやきました。それは、なんとも奇妙な言葉でした。なぜなら、空はどんよりとして、今にも雨が降ってきそうだったからです。
私が考えを変えて、その日はすばらしい日であり、これは、神の日の美しさを思い起こさせてくれているのであると理解したとき、事態は一変したのでした。その男性も、目の前の景色を見つめ、そして今、私が言ったことに同意したのです。彼は、話しかけるのを止めて、私から離れて行きました。そこで私も車から離れて歩き出しました。そして、車に戻ってきたとき、その人は車の中に座っていて、私が車で走り去るとき、注意を向ける様子もありませんでした。
私には、あの男性が何をしようとしていたのか分かりません。しかし、私に分かっていることは、私が心を神に向け、そして、神の被造物のすばらしさと善意だけを見たとき、つまり、目の前にある物質的な映像を拒否したとき、あの男性が脅迫的な態度をとるのを止めたということです。私にとって、これは、キリストが、私の考えを高めて、神の被造物すべてにおいて、自然で、美しいものを見るように、しむけてくださったということでした;私は、聖なる輝き、けがれなき美しさだけを見ていたのです。
聖書は、「御名の栄光を主に帰せよ。供え物を携えて主の御前に近づき、聖なる輝きに満ちる主にひれ伏せ」(歴代上、16:29、新共同訳聖書)と教えています。神に栄光を帰し「聖なる輝きに満ちる主にひれ伏す」には、どうしたらよいのでしょうか。キリスト・イエスは「わたしは道であり、真理であり、命である」(ヨハネ、14:6)と言いました。私たちが神の前にひれ伏すためには、何が必要であるかを知るために、キリスト・イエスが良い模範であるに違いありません。
聖書に出てくるザアカイの話で(ルカ 19:1-10 参照)、イエスはザアカイに、木から降りてきなさい、きょう、あなたの家の客人となることにしているから、と言いました。イエスは、物質的感覚が示すものを超えて、ザアカイの本性を見ていたに違いありません、なぜなら、周囲の人たちの目には、ザアカイは、「罪人」、税金を不当に取り立てている腐敗した取税人であると、映っていたからです。彼らは、ザアカイは、イエスが行って一緒に時間を過ごすような人ではないと、考えていたに違いありません。
イエスの前で、ザアカイの性格は一変しました。自分の財産の半分を貧しい人々に与え、不当に取り立てた税金は4倍にして返すと約束したことが、それを明白に示しています。イエスのうちに完全に具現されているキリストは、ザアカイを、彼自身が抱く誤った物質的感覚に映る姿から解放して、彼の存在の真の姿、神の聖なる映像、また似姿である彼の真の姿が、明らかに見えるようにしたのです。イエスは、霊の力が物質を支配すること、そして、真理が人間の状態に癒しをもたらすことを、証明したのです。
神、霊が、全てのものの創造者であるゆえ、全ての被造物は霊的である、これが真実です。霊は、純粋で、完全で、調和にあり、そしてまた、神聖であり、「実在のもの、永遠のもの」(メリー・ベーカー・エディー著、『科学と健康ー付聖書の鍵』、p.468)です。人は、神の理念であるゆえ、霊的であり、神聖です。
あなたは、次のように自問するかもしれません、「どうしたら、周りの人々をみな、実際の姿はそのようには見えなくとも、聖なるものと見ることができるのだろうか。どうしたら、この状態は良いものだと、全く反対の事が起こっている最中に、知ることができるだろうか」と。人間的には、それは確かに難しいことでしょう。しかし、私たちはみな、神、霊の、映像、また似姿に創造されているのですから、霊的真理を目撃することができるのです。私たちは霊を反映しています、それゆえ、私たちは真の霊的生活、霊的生命を、理解する力を、生まれながらにして持っているのです。私たちが人間は罪を犯し、滅びる存在であるという考えを打ち破るとき、神が創造した不滅の人が、自然に見えてくるのです。
キリスト教科学の発見者、創始者であるメリー・ベーカー・エディーは、次のように書いています:「霊は、理解を授けて、この理解が意識を高め、あらゆる真理に導き入れる。『詩篇』の作者は、『主は高き所にいらせられて、その勢いは多くの水のとどろきにまさり、海の大波にまさって盛んです』と言う。霊的感覚は霊的善の識別力である。理解は、実在と非実在との間の境界線である。霊的理解は、心 ― 生命・真理・愛 ― を展開する、そして神性の感覚を実証し、キリスト教科学によって宇宙を霊的に証明する」(『科学と健康』、p.505)。
神に栄光を帰し、神が唯一の力であることを受け入れ、自分を滅びる人間として見ることを止め、そして、神に与えられた霊的洞察 ― 存在の真理についての知識 ― を、自分のものとして主張するとき、私たちは「聖なる輝きに満ちる主にひれ伏す」ことになるでしょう。するとそのとき、神の被造物が認知されるのです、そして、調和、完全性、美しさ、また、聖なる輝きに満ちる霊的実在が、今、現存することが、明らかに見えてくるのです。