最近、かつて米国の市民権運動の指導者だったジョン・ルイス下院議員とのインタビューを、インターネットで見て、私は非常に感動した。非暴力の抗議活動をしていたときに直面した悪意ある、口頭での、あるいは肉体的な暴力に対して、どのように対処したかと尋ねられ、彼は、次のように答えている:「あれから長い年月がたっているが、私は、一度も、彼らのうちの誰一人に対しても、苦い思いを持ったことがないのです。そんな意識は全くないのです」(On Being with Krista Tippett, “John Lewis, on the Art & Discipline of Nonviolence”、「クリスタ・ティペットと語る」、「ジョン・ルイスが語る非暴力の技と自律」)。
私たちの多くは、あの下院議員が10年前に体験したような悪意に満ちた行為に、ほんの少しでも比べ得るような経験をしたことはないかもしれない。しかし、おそらく、自分は不当に扱われたとか、憤りを覚えても仕方がないと思われるような、ー そして、実際にそんな感情を持ってしまったかもしれない ー 困難を、経験したことがある人は、いるのではないだろうか。
憎しみとか、苦々しさは、不正に対する当然の反応であるように思われるかもしれないが、あの下院議員の言葉は、そのような感情は、私たちの真の本質に属するものではないことを、思い出させてくれる。それゆえ、私たちは、そのようなものに挑戦すべきなのである。ルイス議員が、インタビューの後半で述べているように、「憎しみは、背負うには大きすぎる重荷なのである」。
彼の言葉は、キリスト教科学者としての私に、更に深い真理を照らし出してくれた。神に創造された私たちの本体は、完全に霊的であり、善であるため、苦々しさとか、敵意などは、入り込む余地がないのである。たとえ、私たちが、自分は物質でできている、つまり遺伝子によってできていて、感情的な性癖が「未然にプログラムされて」組み込まれていると思ったとしても、聖書は、私たちは神の影像と似姿に創造されている、従って、私たちが相続することができるのは、神に似たもののみであると述べている。苦々しさとか、憎しみは、私たちが神に与えられている愛あふれる本性に含まれていないので、それらを感じることはできないのである。聖書は、一般に信じられている神の二重性格というものに対して、つまり、すべての生命の源である神が、善と悪の両方を現し得る人間を創造しているという考えに対して、異議を唱えている。聖書は、「泉が、甘い水と苦い水とを、同じ穴からふき出すことがあろうか?」(ヤコブ 3:11)と問いかけている。
キリスト教科学の発見者、メリー・ベーカー・エディは、深い祈りをもって聖書を学んでいた。キリスト教科学の教科書、『科学と健康ー付聖書への鍵』のなかで、彼女は、神の創造は純粋に善であり、霊的であることを学んだ結果を、人々と分かち合おうとしたが、それは社会一般から歓迎されなかった。彼女は、報道機関から、また友人や家族からも、彼女の性格について、微妙な、あるいはあからさまな攻撃を受けた。しかしながら、これらの経験により、彼女は、一層、神性の愛に引き付けられ、そこに力と保護を見いだしたのであった。彼女は教科書に次のように書いている:「地上の冷たい突風は、愛情の花を根こそぎにし、風のまにまに撒き散らしてしまうかもしれない;しかし、このように肉の絆が断ち切られることが、考えを神に更に固く結びつける、なぜなら、愛は、もだえる心が地上のことに嘆くのをやめて、天に向かって翼を広げるようになるまで、支えていてくれるからである」(p. 57)。
このように、非常に辛辣に思われる経験が、実は、神をより近く感じる機会をもたらし、また人の霊的身分について学ぶ機会になり、そしてまた、霊的身分とは実際に何を含み、何を含まないかについて学ぶ機会になると知ることは、なんという慰めであろう。
何年も前のこと、中学から高校に移るあいだの夏休みに、私はそのような経験をした。学校の女子生徒2人からひどいいじめを受け、私の家族の平和が侵されているように感じ、また私は身の危険を感じていた。しかし、私は、その責任を負うべきことが判明した2人を、神から受けている彼らの真の霊的身分のうちに見ること、彼らはただ善のみであると見ることにより、復讐したいという気持ちから解放されたのである。
その夏、私は、日中は演劇キャンプに参加していたが、いたずら電話が絶え間なくかかってきていた。電話の主たちは、私に一層痛烈な嫌がらせとなるように、私の家族の電話番号を触れ回り、事態は更に悪化していた。警察が電話の主の電話番号を追跡した結果、学校の女子生徒2人であることが判明した。以前は、友達だと思っていた2人が、この年は、時に非常に意地悪をしてきたのであった。電話は止まった、そして、2人は裁判所に呼び出された。2人は、それらの行為の代償として、地域社会で奉仕活動を行うことを命じられた。
当初、私は、この女の子たちが、私と私の家族に対し、これほどひどいことをしたことに、打ちひしがれていた。しかし、私はキリスト教科学の日曜学校で、すべての人を、神によって真に善に創造されている、その本来の姿で見なければならないこと、従って、他人を害そうと思うことなどできないものとして、見なければならないことを学んでいた。私は、自分が傷つけられ、妨害されたという思いにかられながらも、同時に、これらの感情は、私が神に与えられている本体の中に真の起源がないので、これらの感情に実在性を与える必要はないことを知っていた。
私は母の祈りに支えられて、秋に新学期が始まって学校に戻った時には、彼女たちの顔をみて、神の顔を見ること(ヤコブとエサウの話、創世33:10参照)が、可能なのだということを理解して、実際に廊下で彼らに出会ったとき、怒りではなく、思いやりの気持ちを感じて、すれ違うことができた。その一人は、私と同様、演劇が好きで、高校の演劇活動に一緒に参加して、親しい友人になった。数年後、大学生のとき、もう一人の女子生徒が電話をかけてきて、あの夏に、彼女がしたことについて謝ってきた。
この経験は、当初、あたかも「地上の冷たい突風」のように感じられたが、私は、憤りを感じることから、また報復したいという思いから、解放されていることに感謝した、そしてこれは、人が神の純粋な似姿であることについて、また人と神の関係について、自分が学んでいたからだと思う。しかし、もし、誰かが自分を不当に扱い、自分が憤りを感じているとしたら、また、その時の苦しいやり取りを、心の中で何度も思い返しているとしたら、どうだろう。(興味深いことに、この ‘resent’「憤り」という言葉の語源は、ラテン語にあり、「反復して感じる」、「感じ方を新たにする」、いう意味を持つ。)神性の愛の罪をあがなう力、過去の過ちを償う力は、こうした考えに挑戦して、自分が求めている心の自由を見出すために必要な、霊的力を与えてくれる、しかし、それには、私たち自身が悔い改め、改心することが求められるのである。
新約聖書の「マタイによる福音書」は、キリスト・イエスが「悔い改めよ、天国は近づいた」(4:17)と説いたと伝えている。 ‘Repent’「悔い改める」とは「再度、考える」、考え直す、という意味である。
イエスは、考えが、新しくされ、過去の過ちは償われなければならないことを知っていた、そして、それを実行するには、キリスト、真理、つまり自分が教え、実証した真理によってのみ、可能であることを知っていた。すべての考えを、進んで神の意志に委ねること、キリストの愛に委ねること、これが使徒パウロが述べた言葉、「すべての思いをとりこにして、キリストに服従させ(る)」(第2コリント10:5)ことの意味である。そしてこれが、真の改心であり、癒しをもたらすのである。
私たちが自分の神性の本性を表せるように、また、もっと愛情深く、慈悲深くなれるようにと祈る、誠実な祈りはすべて、応えられる。このように祈ることによって、人の真の本体、身分、神の潔白で、愛情深い子であるという身分が、私たちに明らかにされる。誠実な祈りは、私たちから、憤りや復讐という重荷を取り除く。そしてそれは、キリスト教科学が「人間の心」と呼ぶもの ー 霊性に欠け、真の創造力に欠け、神性の権威に欠けるもの ー の退屈な反復による重荷を、取り除いてくれる。この人についての真の見方は、考えを自由にし、他の人々と健康的で建設的な関係を持つことを可能にする。
『科学と健康』の中で、エディ夫人は、私たちが考えのなかに、自分自身の、また周りの人々の、霊的なモデルを保つように奨励している、そして、読者に次のような力強い導きを与えている:「無私・善意・慈悲・公正・健康・霊的清さ・愛 ― つまり天の王国 ― を、わたしたちのうちに君臨させよう、すると罪・病・死は減り、ついには消え失せてしまうであろう」(p. 248)。
「冷たい突風」の厳しい経験に見舞われたとき、神性の愛は「もだえる心」を支えてくれる、そして、憤り、悲しみ、自己憐びんという不完全な考えのモデルを、高く引き上げ、「地上のことに嘆くのをやめて、天に向かって翼を広げるようになる」まで、支えてくれるのである。