私が3才になってすぐ、祖母は、自分が会員である科学者キリスト教会の支教会の日曜学校に私を入れてくれた。彼女自身、キリスト教科学を学び始めてまだ間もない生徒だった。以前、祖母は病気になって、掛かりつけの医師から専門医に送られ、専門医は多くの検査をした結果、癌が相当に進行していて、医療では手の施しようがないと言った。そして、彼は、「キリスト教科学を試してみることを、お勧めします」と付け加えたのだった。
彼女は、それがどういうものであるか知らなかったが、色々調べていくうちに、キリスト教科学の実践士に導かれた。実践士は彼女にキリスト教科学について話してくれ、そして、彼女のために祈り始めてくれた。ついに祖母は完全に癒され、そして、この素晴らしい科学の献身的な生徒になった。
私の母(祖母の娘)は、自分の母が受けた癒しに深く感謝し、また感動して、彼女もまたキリスト教科学の生徒になった。私は日曜学校が大好きだった、そして、私の家族は、長年にわたり、たくさんの忘れ難い癒しを経験してきた。私は、メリー・ベーカー・エディの著作を勉強するとき、彼女が使う言葉に細かい注意を払っていた。特に心を惹かれる文章があると、その文章を何度も読み返し、使われている単語を一つずつ順々に取り上げて、その単語が文章全体にどんな意味を加えているのだろうかと考えてみた。私は新しい洞察を得て、それが癒しをもたらした。
私は、聖書の言葉についても、同様な方法で勉強していた。この勉強から得た霊感が、ある晩、素晴らしい癒しをもたらしてくれた。私は病気で、2か月ほど、床から起き上がることができないでいた。私は、日夜、熱心に祈っていた、そして、優しい実践士の支えに、深く感謝していた。しかし、自分の病状が悪化してゆくように感じ、愛する夫と、大切な幼い3人の息子たちを残して行くことになるかもしれないという恐れと戦っていた。
ある夜、私は自分が死にひんしているように感じ、さらに霊感を求めて神に向かっていた。すると、キリスト・イエスがヨハネから洗礼を受けた後、神から受けたメッセージ、「これはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である」(マタイ 3:17)という言葉が、特にはっきりと私の心に響いた。そして、私は、いかに私たち一人一人が、神に愛されているかを実感し始めた。そこで、私は、次のように祈り始めた:
「これはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である」。「これとは、どのような人だろう」と、私は自問した。確かに、それは病気で死にそうな人間ではない。この唯一の「これ」とは、不滅で、完全な神の子、神が神の映像と似姿に創造し、維持している神の子のことである。
「これはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である」。「である」とは、まさに、今、そうであること、常にそうであったこと、そして、将来においても、常にそうであるということだと、私は推論した。神の子が、純粋で完全な状態から外れることは、絶対にあり得ないということである。
「これはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である」。私は神のものである。私は、神の子であり、神の曇りのない、澄んだ似姿なのである。
「これはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である」。神に愛されていることは、なんと素晴らしいことだろう、この神は絶えず、やさしく私のすべての必要を満たしているのだから。
「これはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である」。子どものように考えること ー つまり、無垢で、信頼し、純粋であるものすべて ー これのみを、私は真に考えているのである。
「これはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である」。私は、神が私を加護してくださっていること、私の真の霊的本体、身分を、神の「心にかなう者」と考えてくださっていることに深く感謝した。
一晩中、新しい考えが私の意識に示されてきた、そして、私はその一つ一つについて熟考した。朝になると、私は、畏敬の念を覚えながら、完全に癒されて、床を出たのだった。私の心は、愛と感謝にあふれ、家族とともに、神に感謝した。
それから何年もの年月を経るあいだに、3人の息子と義理の娘の1人が、それぞれの支教会で朗読者として務めるのを聞くことは、計り知れない喜びである。私は、この科学に対して、また、この科学が、私および私の周りの者たちに示してくれている重要なことすべてに対して、心から感謝している。
米国、ミズーリ州、チェスターフィールド
Diana Waller
ダイアナ・ウォーラー