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「父よ、どうしたら許すことができるでしょうか」

キリスト教科学さきがけ』2017年01月31日号より

The Christian Science Journal, 2016年 7月号より転載


許すこと、それはキリスト教の偉大な概念の一つですが、考えるのは容易ながら、実行するのははなはだ難しいことです。「許し難いことを、どうしたら許せるだろうか」。「自分の受けた傷を、どうしたら乗り越えられるだろうか」。「もし、自分は許したくないとしたら」など、次々と疑問が湧いてきます。

しかし、の慈しみを経験したいのであれば、許しは、必須なのです。ただ口先だけのもの、あるいは許すような素振りをするだけでは不十分です。許しが達成されるためには、その前に、考えを根底から変えることが必要です。「主の祈り」の中の一節が、助けとなる洞察を与えてくれます。「わたしたちに負債のある者をゆるしましたように、わたしたちの負債をもおゆるしください」(マタイ6:12)。 自分が許しを求めるのであれば、明らかに、同じだけ、自分が、許さなければならないのです。

十字架にかけられた時のイエスの言葉が、許しの最高の模範であると、私は常に思ってきました。「よ、彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのか、わからずにいるのです」(ルカ 23:34)、と、彼は言いました。イエスのこの許すという意志が、彼の人生で最も厳しい経験 ー つまり、死そのものを克服せねばならないという経験 ー を、克服させたと見ることはできないでしょうか。イエスは、自分が理解し、霊的に認識したものによって、自分の命を奪う者たちを許すことができたのです。そして、それは、疑いもなく、彼が人類のために行った最高の実証 ー 彼の復活 ー に、不可欠なものでした。

あのキリスト的な許しの行為は、非常に高い基準のものであって、私たちに可能と思われる基準をはるかに超えたものに思われます。しかし、この模範から、私たちは、不可能と思われる状況にあっても許すことを、学ぶことができます。そしてまた、その行為に見られる深いキリストらしさが、私たちがそれを実践していくとき、私たちに霊的力を与えてくれます。

私は、子供のとき、ある親戚の人から虐待を受け、何年もの間、その人に対して激しい憎しみしか持つことができませんでした。私にとって、許すことは、まったく考えられないことでした。

しかし、キリスト教科学の実践士の仕事に全時間を捧げるようになって何年かたってから、ある日、ふと、私が癒し手になりたいのであれば、もうこれ以上、この憎しみを抱き続けることはできない、ということに気がつきました。そして、私は、祈りのうちにひざまずいて、心から助けを求めました。「よ、これほどひどい行為を、私はどうやって許したらよいのでしょうか」。は、この祈りに応えて、私を深遠なる霊的な旅に向かわせ、平和と自由の地に辿り着くまで私を導いてくれました。そして、この平和と自由の地において、私は、その親戚を完全に許すことができたのです。

その旅の中で学んだことの一つは、本当に完全に許すことができるためには、私たちは心から許したいと願わなければならないということでした。メリー・ベーカー・エディは、彼女の著書、『科学と健康−付聖書の鍵』のなかで、「願いが祈りである;それゆえ、願いが言葉や行為に表わされる前に、型取られ高められるように、にわたしたちの願いをゆだねるなら、何も失うことはない」(p. 1)と書いています。

時には、許しによる心の平和と解決を、本当に感じたいと願う境地に至ることが、かなり難しいこともあります。許すよりも、恨み、怒り、憎しみにしがみついていることの方が、容易に思われるのです。しかし、状況がどうであれ、私たちが心から成長したいと願うのであれば、は私たちを助け、導き、私たちの祈りに答えてくれるのです。

さて、許したいと願う境地に到達したとき、次の段階は、私がその人を、どのように見ているかということでした。思い切った思考の転換が必要でした。霊感を求めて祈っていると、私は、その人を、非情で、愛情のない、怒りに満ちた、制御できない人間として見ることを乗り越えて、彼もまたの子であることを認めなければならない、ということが分かってきました。これは、単に自分がそうしようと決めたからできる、というものではありませんでした。神性のの力が、私の心に触れることが必要でした。単なる知的な訓練で、できるものではありませんでした。私は、いく日もに祈り続けて、の人を私に示してくださいと願い、そして、私の心を変えて、あの親戚の人のうちに、が彼に与えた善である霊的本性、彼の真の唯一の本性を、見ることができるようにしてくださいと、願い続けました。

少しずつ、私は自分の心の中に、この人に対するかすかな同情の光が現れてくるのを、感じました。が、自ら創造したものの真実を現してゆくあいだ、私は誠実な祈りのうちにじっと耳を澄ましていました。私は自分の祈りの目的は、悪人を善人に変えることではないことを悟りました。むしろ、私は、この親戚の人を、の子であるその真実の姿のままに、つまり、私たちが聖書の中で読んでいる、の「映像」として、「似姿」として創造された(創世 1:26, 27)の子として、見ることができるようにと、懸命に努力を重ねていました。私たちは、一人一人、すべての人が、どこにいても、その本性は真に霊的であり、の特質のすべてを現しているのです。

私たち一人一人についてのこの栄光に満ちた真実が、時には、人間的概念によって覆い隠され、私たちがに似たもの以下のもののように見えたり、行動しているように思われたりすることがあります。私たちの癒しの仕事とは、私たちの、また、すべての人の罪なき純粋な本性を、覆い隠そうとする霧を突き破ることなのです。霧が地形を変えることがないのと同様に、人が罪ある滅びる人間であるという、人についての誤った概念が、の光に輝く反映である人の真の本性についての真実を、変えることはできません。

私たちは、自ら経験したことや、あるいは虐待のニュースを聞いて、人は滅びる人間であり、罪を犯し、およそ考えられないような行為に走ってしまうこともあり得ると信じるように、誘惑されるかもしれません。しかし、私たちが、キリスト的な許しには変化させる力があることを知り、またそれを理解すると、その理解の程度に従って、私たちは、癒しを目撃するでしょう。霧は晴れて、私たちは、が霊的に創造したもの、つまり人の、素晴らしい実在、現実を、見ることでしょう。

これは、私にとって、「一瞬のひらめき」の体験ではありませんでした。あの親戚の人が、真にの子であったという霊的事実を受け入れることができるまで、揺らぐことのない、粘り強い努力を重ねなければなりませんでした。

「でも、あれほど人を傷つける行為とは、どういうものなのだろう。一体、なぜ彼にあんなことができたのだろうか」。ここで、同情の光が差し始めたのです。エディ夫人は、明確に、悪は「人間でもなく、場所でもなく、物でもなく、単なる信念、すなわち物質的感覚の幻想である」(『科学と健康』、p. 71)と述べています。悪は、と、の人についての偽りなのです。私は、自分がそれまで、人は人を傷つける滅びる人間である、と信じていた考えを転換しました。そして、 この思考の転換により、彼は、真実には、善であることを見据えることができたのです。つまり、あの親戚の人は、本当は彼のものではない一時的な衝動に屈してしまったのだということに気がついたのです。私が経験していたことは、彼の真の本体ではないもの、唯一のが彼に与えたものではないもの、つまり、一種の欺き、外から押し付けられたものでした、それは、あらゆる闇と悲惨さを含む死滅性であって、霊的な真実の光の中で消えてしまうものでした。

彼について、このように考えてゆくうちに、私は、自分の考えの中で、彼の真の本体を、以前はあれほど説得力を持ち、現実であるように思われていながら実は嘘の姿であったものから、切り離してゆくように努め始めていました。彼の行為は、明らかにの子の行為ではなかったということが分かってきたのです。彼は、自分がしたことを実は本当は知らなかったのだ、ということが分かったので、私は、彼を許すことへの希望を感じることができるようになりました。もちろん、これは、どんな悪の行為でも許すことを意味しているのではありません、しかし、これが彼の真の本性であったことは一度もないということを、私は深く認識しつつあったのです。

ただ、もう一点、未解決の問題が残っていました。私が被ったと信じてきた心の傷については、どうなのでしょう。私は、この問題から、次の霊感に満ちた考えによって、解放されました、そして、この考えは突然に、そしてはっきりと示されました。それは、私の霊的存在の本質は、無傷であったということです。自身の子である私の霊的本体は、いかなる意味においても、どんな危害も傷も受けることができなかったのです。私の真の存在は無傷であり、いかなる死滅性の信念からも安全に守られているので、自分には傷跡もないことが分かりました。私は、愛の完全さに永久に包まれていること、そして、私を傷つける悪は存在しないことを悟りました。

この理解が、自由と完全な心の平安をもたらしました。私は、実は、許すものは何もないのだということを、悟るに至ったのです。私の真の存在は、何の影響も受けていなかったのです。この祈りの結果、私は、幾年ものあいだ断絶状態にあったあの親戚と、心からの友情を再び築くことができました。そして、その友好関係は、今も続いています。

イエスは、彼の霊的本体は無傷であるという事実を十分に認識していたことが、彼が死から甦ることを可能にした、その不可欠の要因であったことは明らかです。彼は、の愛する子であって、常に守られ、愛されていました。キリスト、彼の真の本体は、人間イエスに向けられた憎しみによって、傷つくことはありませんでした。同様に、私たちも、不正、欲、野望などのように見えるものに、脅かされているように思われるとき、私たちは自分が無傷である、悪に触れられていないことを、知ることができます。

この許すという概念を、より広い世界の場で活用すると、癒しの意味を持ちます。人の真の本体は、霊的であること、つまり、永遠に完全なの似姿であることが認識できると、の愛する創造が、傷つけたり、傷つけられたりすることは不可能であることが明らかになります。この理解が、真に許すという私たちの祈りを通して、私たちをどれほど重荷から解放してくれることでしょう。私たちには、イエスの模範があります。私たちにもできるのです、彼が、私たちの道案内だからです。そして、私たちが許すにつれて、キリストが授ける許しを私たちが受けるのです。これは、私たちにとって、そして、すべての人にとって、なんと愛に満ちた約束でしょう!

『さきがけ』の使命

1903年に、メリー・ベーカー・エディは、『キリスト教科学さきがけ』を創刊しました。その目的は、「真理の普遍的活動と有用性を宣言する」ことでした。ある辞書によると、『さきがけ』定義は「先発の使者」(先触れ、先駆け)ー 後に起こる事が近づいていることを告げるために先立って送られる者、使者」であり、『さきがけ』という名称に重要な意味を与えています。さらにまた、この定義は、私たちの義務を指し示しています。それは私たち一人一人に課せられた義務であって、私たちには、私たちの『さきがけ』がその責務を十分に果たしているか見届ける義務があるのです。この責務はキリストと不可分であって、まず初めに、イエスが、「全世界に出て行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えよ」(マルコ 16:15)と述べて、表明したものでした。

Mary Sands Lee (メリー・サンズ・リー)、Christian Science Sentinel, 1956年 7月 7日

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