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神の秩序の法則

キリスト教科学さきがけ』2017年03月15日号より

The Christian Science Journal、2016年  3 月号より転載


18 世紀のイギリスの詩人、アレクサンダー・ポープが残した名言、「秩序は、天の第一の法則である」について、メリー・ベーカー・エディは次のように述べています:「この言明は、まさに永遠に真実であり、自明であるゆえ、公理となっているが、その知恵は、天文学や数学において明白であるように、宗教や学識全般においても明白なのである」(Retrospection and Introspection,『回顧と反省』、p. 87)。

「秩序は、天の第一の法則である」とは、まさに公理であり、その知恵は明白です、なぜなら、秩序の不在は混とんであり、混とんには、何の構造もなく、従って、何の本体も個性もなく、表現も、美しさも、機能も、目的もないからです。著者にとって、法則の働きが、いかに秩序を確立し維持するかを示す、最も感動的な例証の一つは、ハッブル宇宙望遠鏡で撮影された、息をのむように美しく、秩序正しく展開する私たちの宇宙の写真です。ところが一般には、この壮麗な天上の秩序は、知性のない偶発的な物質の力や、もろもろの物質の法則の働きによるものである、つまり、重力、電磁気、強弱さまざまな原子力などの作用によるものである、と考えられています。それに比して、キリスト教科学は、宇宙の基本であるもろもろの力は、霊的である、そして、「もろもろの物質的な、いわゆる気体や力は、神性ののもろもろの霊的な力の偽造物である…」(メリー・ベーカー・エディ著『科学と健康—付聖書の鍵』、p.293)と、説明しています。

たとえ、宇宙とその法則が、物質的感覚には、どれほど物質的なものに映ろうとも、宇宙とその中に存在するものすべて、そして、その秩序を統治し、維持する法則はすべて、霊的であり、霊、に属するのです、これが事実なのです。そして、これが、まさしく、今、現在、霊的な感覚に現れている宇宙であり、私たちの地球もそこに含まれています。「物質的感覚には、地球は物質である;霊的感覚には、それは複合理念である」(『科学と健康』、p.585)と、キリスト教科学の教科書は説明しています。物質的感覚には物質的に見えるとしても、人、宇宙、そして法則は、霊的であるという輝かしい真実が、キリスト・イエスの働きによって明らかにされました。 イエスはまた、すべての物質的、物理的、身体的法則は、神性の形而上学に屈するという事実を、反論の余地なく明白に実証しました。

個々別々の霊的力が、のエネルギーとその永遠につづく活動を構成しています、そして、これらの霊的力が、真の法則、つまり、神性科学聖霊、の全体を形成しています。キリスト教科学は、また、これらの力は、物理学者たちが長いあいだ信じてきたような、個々別々でバラバラのものではなく、つまり、物質的な宇宙が創造された最初の瞬間だけ一体であったというのではなく、個々別々ではあるが永遠に一体であり、そして、唯一の源、つまり、、創造されたものすべての神性原理心、から発生していることを明らかにしています。キリスト教科学は、また、は神性のであるため、これらの力が、「共に働く」ことができないとか、無作為に行動するとかいうことは決してなく、全く傷つけることなく、正確であり、知性を意識的に表すものであり、それ以下のものではあり得ないことを明らかにしています。

従って、すべての真の秩序は、天上におけるように、地上においても、宇宙体系の大宇宙から、一人一人が日々実生活の中で必要とする秩序を含む小宇宙に至るまで、の知性的法則の働きの結果であり、証拠なのです。

の法則が全空間を満たしているので、秩序も全空間を満たしています、これが事実です、なぜなら、法則とその結果である秩序は、不可分だからです。しかし、物質的な感覚は、永遠のとはいかなるつながりもないため、が示している個別の、明確な、本来の秩序を識別することができません。神性の秩序は、霊的感覚によってのみ識別されるので、人間の意識は、物質的な法則に支配されている、いわゆる物質的な人の幻想から目を反らして、現存する、私たちの霊的源、本体、継続性の事実に、委ねなければなりません。これが、の秩序の法則に自然に統治されている人であり、被造物なのです。神性のは、この多面的な法則の働きのもとに、その個々の理念を個別に統治し、管理しています、そしてまた、すべての理念を集合的に、まさに今、ここで、地上においても天におけると同じように、統治しています。

自然界の偉大な不思議の一つに、鳥の群れが飛んでゆくときの驚異的とも言える美しい現象があります。小さな群れ、ある程度の大きさの群れ、また、何百万羽もの巨大な群れもあります。この鳥たちは、どんなに密集していても、どれほど度々、そしてまたどれほど急に方向転換をしても、決して衝突することがないのです。鳥類研究者、物理学者、数学者たちが長い間、この一見謎めいた現象の答えを探求していて、興味深い理論を打ち立てている研究者もいます。しかし、鳥たちの、この畏敬の念をも起こさせる飛翔現象を完全に理解するためには、このような完璧な秩序のもとに行動を保たせる知性は、鳥にあるのではなく、にあること、つまり、すべての被造物のと実質にあることを、認めなければなりません、そして、こののうちに、すべての被造物は、まさに今ここで、存在しているのです。聖書は、「なぜなら、われわれは [] のうちに生き、動き、存在しているからである」(使徒行伝17:28)と、述べています。神性のは、瞬時に、鳥たちの位置、方向、速度を、一致して動かし、鳥一羽一羽の互いの間の関係を、完璧な調和のうちに保つのです。

キリスト教科学の教科書は次のように説明しています:「不滅のがすべてを支配していることが、霊的領域においてばかりでなく、いわゆる体の領域においても、至高であることが認められなければならない」(『科学と健康』、p.427)。このような鳥たちの飛翔の現象は、単なる不思議な自然現象ではなく、の秩序の法則の働きの結果であることを、理解すること、しかも、今現在、この地上において、「不滅のがすべてを支配」しているのであることを理解することが非常に重要なのです、なぜなら、法則は普遍のものであり、実際に適用されうるものだからです。

の普遍の秩序の法則は、常に働いていて、すべてを包含し、すべてに絶え間なく恵をもたらしています。このキリスト的霊的事実を、人が意識のなかに大切に抱き続けるなら、の秩序の法則が人間の経験と完全に一致することが理解できます、例えば、地球の上空を航行するものすべてが、同時に、神性の法則の統治下にあることが理解できるのです。これは、祈り、つまり私たちの神性のとの交わりが、どのようにして、このの統治の事実を、一歩一歩、証明することができるかを説明しています。そして、その過程のなかで、上空や地上におけるあらゆる種類の衝突を防ぐために、今、実際に使用されているさまざまの航空計器や方法をもたらしているのです。そしてそこには、空の鳥たちが、人間が作った建物、飛行機、ヘリコプター、風力タービンなどと衝突しないための考慮も含まれています。

科学において、人間のさまざまの願いや必要は、の秩序の法則に優しく抱かれているので、自然界の働き、またいかなる正しい考えの働きとも、矛盾することはあり得ません。「天の自然の秩序が、地に降ってくる」(『科学と健康』、p.118)からです。それは、 が、の理念を統治し、それらを調和のうちに関連させるとき、の秩序の法則が働き、衝突や相互破壊が起こり得るとする信念を、すべて消滅させるからです。

時間と空間における秩序

Miscellaneous Writings 1883-1896『小品集1883-1896年』の中で、エディ夫人は、キリスト教科学について、「の右の手が、宇宙 を、つまり、すべての時間、空間、不滅性、思考、展開、原因、また結果を、掌握している」(p.364)ことを意味する、と述べています。つまり、神性なるものと人類とが一致するゆえ、の法則が、時間と空間の双方を統治していることに、疑いの余地がないのです。

人間は、時間と空間を、有限のもの、制限するものと考えます。しかし、物質的な感覚が「時間」と解釈しているものは、霊的感覚には、善の無限の展開であり、永遠 なるものです。また、空間は、霊的感覚には、無限なるものです。私たちは、この霊的視点に立って、非肉体的な見地に委ねると、時間と空間についての神性の秩序、すでにのなかに確立されている秩序を、直感し始めます。

の秩序の法則の対象としては、どんな仕事であれ、どんな日々の生活の側面であれ、小さすぎるものはありません。エディ夫人は次のように述べています:「すべてがであり、このが具現されたものである、この世界のさまざまな展開、最も捉えがたい天空の動きから、じゃがいも畑に至るまで…」(Miscellaneous Writings『小品集、p.26』)。私たちが過ごす一日のなかでどんなことであれ、自分の途切れることのない霊的存在、また自分ととの不断の一致を実証するために、重要度がより低いというものはないのです。

1.    時間における秩序。時間を秩序正しく使うと、例えば、素晴らしく論理的な秩序で、着想が現れてくることが期待できるでしょう。秩序のこの側面においては、すべての要素が同時に見えたり、聞こえたりするわけではありません。例えば、協奏曲の中の一音一音、また、討論で示されるすべての考えが、同時に聞こえてくるのではありません。バレーの動きすべてが、同時に見えるものではありません。

この秩序の分野においては、優先順位を定め、タイミングを見極め、調整することが必要です、なぜなら、仕事を秩序正しく、正しい時に行ない、また普遍的な秩序と調和させて達成することが、確かに、仕事そのものと同じほど、重要だからです。霊的感覚にとって、神性の秩序を識別することは、何より自然なことです。しかし、そのために、私たちは、あくまでも、物質的感覚を沈黙させ、意識しての指示に耳を傾けることが必要です。例えば、面会の日時を決める、電話をかける、プロジェクトに取り組む、また自分の考えを、会議で、手紙や記事や書類やスピーチのなかで、提示するとき、あるいは、キャリアアップに挑む、何か決断する、家事を行う、雑用に優先順位をつける等々の場合においても、の秩序に耳を傾けることが必要です。

神性の意思に委ねると、いかに私たちが安全に守られるように、秩序正しく日々生きることが可能になるかということが、ごく自然に見えてきます。つまり、私たちがどこに行くにしても、常に適切な場所に、適切な時にいて、また賢い同伴者を得るのです。神性のが、私たちの日々を調整しているのを知ると、無数の鳥たちが美しく、安全に飛べるよう調整されているのと同様に、安全性は、個々別々の個人的なものではなく、羊飼いが羊を導くのように、普遍の法則であることが、理解されるでしょう。すべてを愛するの至上の統治において、一人の安全は、すべてのものの安全なのです。

一日を計画するときに、神性の法則の働きに進んで委ねることは、とても自然で、楽しく、気持ちがゆったりとして、心に安らぎを得ます。それは、人間の意思によって一日の秩序、手順を決めようとするときに、しばしば覚えるイライラとかプレッシャーを沈黙させます。人間の意思で決めるということは、個人的な愛着の念や、誰が重要か、何が重要かという個人的な感覚に基づいた、その人本来のものではない、人間的感覚による秩序なのです。

詩篇の作者は、「人の歩みはによって定められる」(詩篇37:23)と言っています。この詩篇の言葉を言い換えると、人の思考、言葉、着想、活動、タイミング、決断は、によって定められる、と言えるでしょう。科学において、真の思考と着想は、の中で生まれ、完璧な秩序をもって現れ、そして、神性の法則によってその秩序のもとにいつまでも保たれるのです。

また、肉の心が、の秩序の法則を逆転させようとして、手の込んだテロ行為のたくらみのように、悪の意図的な行動という形で現れることを、知っておくことも大切です。科学において、害を与える秩序はないのです、の国を偽造したり、の国に対抗したりするような、悪や憎悪の国はないのです。『科学と健康』は、「霊的事実が逆になることはない;その反対の不和は、霊性に似るところが全然なく、実在するものではない」(p.207)と説明しています。

2.空間における秩序。空間的秩序については、ものごとが静止していようと、動いていようと、すべてのものが、同時に目に入ってきます。例えば、部屋の家具は、すべて同時に見えます。

神性の法則は、全空間を満たしています。従って、神性原理において、 空間の秩序が時々存在するなどということはあり得ません。このような秩序について、Martha Wilcox(マーサ・ウィルコックス)は、We Knew Mary Baker Eddy『私たちは、メリー・ベーカー・エディを知っていた』の中で、エディ夫人は、すべての事柄において、の秩序が表されることを要求したと、次のように述べています:「彼女は、の厳密さと神性の秩序を、他に例を見ないほど顕著に示していました。長さの違う針を、針刺しに刺すとき、それぞれの位置が決まっていました。それによって、必要な針を取り出すとき、他の長さの針を抜いたり、戻したりせずに済むからです。エディ夫人は、もし、人が、今、意識している事柄において、秩序正しく、正確でなければ、その同じ思考は、治療を行なうときに、あるいは厳密である科学を活用するときに、正確さに欠ける」(同書増補版、第1巻、p.473)と信じていました。

もっと大きな規模で考えるなら、イエスは群衆に食物を与えたとき、「空間的秩序」を求めたと言えるでしょう。彼は、弟子たちに、数千もの人々を「五十人ずつの組にして、すわらせなさい」(ルカ9:14)と言って、途方もない命令を下しました。

私たちの日常は、空間的秩序を実証すべき機会、あの「針刺し」や、また、より大きな機会にあふれています。ある日、私たちは、の導きに耳を傾けて、例えば、車庫、戸棚、机、あるいは散らかった部屋を整頓したり、また、庭を作ったり、家具を置き換えたり、あるいは、自分の日々の生活空間に秩序をもたらすために、基本的に必要な無数の課題のいずれかと、取り組む必要があると感じているかもしれません。

あるいは、私たちは、あまり一般に知られていない、より複雑な空間的課題に取り組んでいるかもしれません。例えば、ある建築家は、多数の建物の複合体を設計する必要に迫られているかもしれません、ある農家は、耕作地の配置を決めるところかもしれません、また、ある芸術家は、自分が描く絵の色調、線、形が織り成す秩序と、取り組んでいるかもしれません。

キリスト・イエスが、私たちの模範

キリスト・イエスは、神性の法則、聖霊(ルカ1:35参照)の権威のもとに、霊的にはらまれました、従って、彼の思考、言葉、行為は、によってはらまれ、もたらされたため、その同じ神性の法則の権威のもとにあって、常に完全に秩序正しいものでした。イエスは、常に自分と天のとの一致を意識していたので、彼が秩序の無いことを行うことは不可能でした。

それでは、イエスの生活には、自発的な行動がなかったのでしょうか。の秩序の法則のもとにあって、私たちの生活には自発性はないのでしょうか。言い換えれば、完全な秩序と、自発的で、自由闊達な生き生きとした生存は、相容れないのでしょうか。そうではありません。なぜなら、秩序とは、それ自体が完全に自発的な行動であり、一瞬一瞬、生き生きとした神性の原理愛、から生まれているものだからです。この原因、この理由に、畏敬の念を覚えさせられます。従って、原理は、同時に、秩序の源であり、また秩序を持続させるものです、太陽が、太陽の光線の源であり、同時にまた、光線を持続させるものであるように。

同様に、イエスの日々は、活力のない儀式や、独断的教義、物質的な証拠に基づいた推論や、条件付きの独自のものではない思考、個人的な人間関係、恐怖、時間、地理的空間などによって、あるいは、人間の意思によって、決められたり、神性の秩序に背くように、圧力をかけられたりするようなことはありませんでした。イエスは、秩序は本来、非個人的であり、神性原理の所産であることを理解していました。

イエスは、繰り返し、人間的な心には、全く不適当と思われるような決断をしました。例えば、友人のラザロが病気だと聞いたとき、聖書には、イエスは「マルタとその妹マリアとラザロとを愛しておられた」と書かれているのですが、彼は、そこで従来良しとされる行為とは反対に、(すぐには駆けつけず)その聖なる使命が展開するままの秩序に従って、使命を正確に果たすため、「ラザロが病気であることを聞いてから、なおふつか、そのおられた所に滞在された」のでした。

イエスは、疑問の余地なく、自分の使命を果たすための秩序における次の段階を未然に知っておられました。それは、4日も墓にいたラザロに、死から勝利のよみがえりを果たさせることでした(ヨハネ11章参照)。

の秩序の法則を、私たち一人一人が実証する

明らかに、法則が働く結果、秩序があり、そして、私たちの真の本性は、秩序ある存在を切望します。Miscellaneous Writings『小品集』には、「神性の本性に従うとき、人の個性は、存在についての神性の法則と秩序を反映する」(p.104)と説明されています。しかし、もし、私たちが、その本質と機能の恵みを受けたいのであれば、私たちは、その法則の根本的な概念すべてを心から愛し、それに喜んで応じなければなりません。もし、私たちが、「十戒」や「山上の垂訓」が示すが与えた法則や規則に逆らうならば、私たちが、日常生活の中で神性の秩序を識別し、実証することは、大変に難しいことになるでしょう。エディ夫人は次のように書いています:「もし、私が生徒たちのために尽くすことに疲れ果てるというようなことがあるとしたら、それは、彼らが、「十戒」に従い、キリストの「山上の垂訓」の精神を受け入れるよう助けるために努力しているときであろう」『小品集』、p.303)。

私たちは、これらの法則や規則の手綱、つまり規律、を身につけて生き、心を尽くしてこれらの法則に従わなければなりません、そうでないと、私たちは、 すべての秩序の源である、神性原理、との繋がりを、天におけるように、地上においても、維持することはできないからです。神性の法則に従わなければ、私たちは、混とんや無秩序に陥りやすくなります。なぜなら、それは、私たちがと一体であることを否定することになるからです。しかし、この事実に目覚め、謙虚に、また一貫してこれを守り、これに従うならば、私たちは、再び「と共に住み」(コリントII 5:8)、、神性科学、の法則に統治されるのです。

しかし、 何が、法の規律にそれほど頑固に反抗するのでしょうか。人間の意識を、の秩序の法則のもとにおくためには、何を沈黙させなければならないのでしょうか。それは、利己的な自我の信念、から離れた無規律な自我です。イエスの「山上の垂訓」に示された規則を守ることから得られる、思考と生活の霊化を通して、に似ない特性、例えば、憎しみ、嫉妬、自我の意志、自己弁護、官能、不正直などの性質は、少しずつ削りとられてゆき、そして、無私の愛、柔和さ、清らかさ、正直さなどに、置き換えられるのです。私たちの人間性は、と一体である私たちの霊的本体を、よりよく現すようになります。私たちは、「神性のの霊的な力」が、私たちの生活や人生に指令していることを、はっきりと感じるようになり、そして、他の人々とも調和よく行動できるようになるでしょう。

世界の舞台では、経済、政治、宗教の混乱に加えて、戦争、テロ、女性の蔑視や虐待、また、歴史的な規模の難民発生の危機が存在し、物質的感覚には、秩序ではなく混とんが支配しているように見えます。しかし、キリスト教科学の教科書は、この状態は、実は、の「絶えざる要求」の圧力の下に、変化の過程にあることを教えています:「『光あれ』とは、真理の絶えざる権利に基づく要求であって、混とんを秩序に、不和を天上の音楽に変える」(p.255)、と教えています。

ヤコブのをおのが助けとし、
その望みをおのがにおく人は
さいわいである。
は天と地と、海と、
その中にあるあらゆるものを造り、
とこしえに真実を守る。

(詩篇146:5, 6)

私たちが、の多面的な秩序の法則を、意識して受け入れ、それに謙虚に従い、従順に、また一貫して私たちの生活を統治させるならば、の神性の活力、すなわち聖霊が「混とんを秩序に、不和を天上の音楽に変える」ことを立証して、私たちに与えられている聖なる責務を果たすことができるようになってきます、そしてこの変化は、私たちの日々の生活のどんな小さな側面においても、また、世界の隅々においても、起こることなのです。

『さきがけ』の使命

1903年に、メリー・ベーカー・エディは、『キリスト教科学さきがけ』を創刊しました。その目的は、「真理の普遍的活動と有用性を宣言する」ことでした。ある辞書によると、『さきがけ』定義は「先発の使者」(先触れ、先駆け)ー 後に起こる事が近づいていることを告げるために先立って送られる者、使者」であり、『さきがけ』という名称に重要な意味を与えています。さらにまた、この定義は、私たちの義務を指し示しています。それは私たち一人一人に課せられた義務であって、私たちには、私たちの『さきがけ』がその責務を十分に果たしているか見届ける義務があるのです。この責務はキリストと不可分であって、まず初めに、イエスが、「全世界に出て行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えよ」(マルコ 16:15)と述べて、表明したものでした。

Mary Sands Lee (メリー・サンズ・リー)、Christian Science Sentinel, 1956年 7月 7日

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