キリスト・イエスは、根気強く祈ることの大切さを教えた。彼は、道徳的で霊的な教訓となるたとえ話を用いてこれを教えた。夜中にやってきた友人の話は、聖書の非常に重要な言明である「主の祈り」のすぐ後に出てくるが、この祈りは、「わたしたちにも祈ることを教えてください」(ルカ 11:1)という、弟子たちの要求に応えたものであった。明らかに、祈りとは、その願いが応えられるまで根気強く続けるべきものなのである。
このたとえ話の主人公、つまり祈っている人が、夜中に友人宅に来て、パンを3つ貸して欲しいと頼んだ。客が到来したが何も食べさせる物がないというのである。最初、友人は家の中から「面倒をかけないでくれ。もう戸は閉めてしまったし、子供たちもわたしと一緒に床に入っているので、いま起きて何もあげるわけにはいかない」と言って断った。
イエスは、根気強く祈ることの大切さを説くために、次のように言った。この友人は単なる友情のためだけであったら、求められたパンを与えなかったのだが、熱心に嘆願されたので、彼は起きてきて、その人が求めるだけのパンを与えたのである。イエスは、おそらくここで、神は、私たちが望む以上のものを与えられるという、神の寛大さをも示しているのだろう。
師イエスは、更に次のように述べて、諦めずに祈ることの大切さを教えている:「求めよ、そうすれば、与えられるであろう。捜せ、そうすれば見いだすであろう。門をたたけ、そうすれば、あけてもらえるであろう」。これは、求める者に対する教えであるが、イエスは、ここで話を神の本性に向けて、神性の親は、聖霊を求める者には誰にでも進んで与えられることを言明した。
師イエスは、人間性の弱さを知っていた。彼は、いかに人々は祈るうちに疲れ果ててしまうかということ、祈りの答えが容易に現れないと、すぐに祈りの熱が冷めてしまうことを知っていた。
キリスト教科学者は、自分の考えが、常に善である存在の真理と符合するまで、根気強く祈り続けなければならないことを知っている。メリー・ベーカー・エディは、『科学と健康—付聖書の鍵』の中で次のように述べている:「誤り、すなわち病、の次元から考えを高めて、真理を勝ちとるために根気強く戦えば、あなたは誤りを滅ぼす」(p.400)。
神は、神の子らに全ての善を与えることを躊躇されることはない。少しでも躊躇されているように思われるのであれば、それは祈っている人が、誤りが実在するという信念を捨てることに躊躇しているためである。キリスト教科学によると、なんであれ、誤りや限界というものは実在せず、現に真実ではない、なぜならそれは、神の無限の善意と支配についての真理に矛盾するからである。事実、誤りは、科学的祈りが、誤りは無であると宣言し始める前から、無なのである。科学的祈りを根気強く続けなければならないのは、人間の意識に悪が無であることを確信させるためであって、神に自分の必要を確信してもらうためではない。
私たちの祈りにおける粘り強さは、悪が存在し実在すると主張する誤りの見せかけの粘り強さに、勝るものでなければならない。誤りは、しばしば、粘り強いばかりでなく、攻撃的である — 破廉恥なほど活発である。その攻撃的な働きには、霊的行動力をもって対抗しなければならず、気弱な賛同や、物憂いそら頼みであってはならない。特定の誤りに対して、特定の真理を根気強く、純粋な心で宣言していると、人の考えは、実在を現実に実感するまで高められ、悪の誤った主張を消滅させてしまう。
私たちは、誤りがいくら攻撃的であっても、それが誤りをより現実のものにはしないことを、常に覚えていなければならない、しかも、誤りの攻撃的な強引さは、誤りの嘘を更に顕著にするだけなのである。そして、私たちが、肉の心の攻撃的な行動によって催眠術にかけられ、だまされた状態から自らを目覚めさせるためには、より深いキリスト的精神が必要とされる。
すぐに癒しが起こらない時に人の心にしのび込む落胆は、それがたとえほんの少しの真理であろうと、真理を宣言しながら中途半端にしか受けて入れていない祈りを露呈する。がっかりする気持ちは、感情的な反応であって、癒しに必要とされる霊的エネルギーを抑えつけてしまう。落胆は、否定的感情であり、肯定的で科学的な祈りには属さない。落胆は、神が常に人に与えている不変の愛を新鮮な目で見直すことにより、常に反駁できる。この愛の現存とその絶え間ない働きを根気強く認めていると、この愛が私たちに届くのである。
エディ夫人は、『否定と肯定』(P.39)の中で、「祈りとは神が私たちを愛するその愛を活かすことです」と述べている。また、「(祈りは)私たちがすでに持っているもの、私たちがすでに在る状態を、これまでに見ることができたよりもっと明瞭に示し、先ず第一に神が何であるか教えます」と、続けている。
どんな種類の誤りに対しても、力強い言葉で立ち向かい、知恵を絞り、策を施し、忍耐力をもって乗り越え、勝ち抜いていかなければならない。悪がいかなる姿をとろうと、それは実在しないものであることを深く理解し、冷静に、霊的識別力をもってあくまでも主張し続けるなら、誤りには無期限に存続し得るような、能力も活力も無いのである。したがって、どんな状況にあっても、たとえ破壊や、混乱状態という緊急事態の主張を押し付けられても、私たちは神が全てであって、実在しないものが実在するものを妨害する力はないことを確信して、明るく肯定的でいられるのである。
「御国を下さることは、あなたがたの父のみこころなのである」(ルカ12:32) と言って、キリスト者の師イエスは、弟子たちを安心させた。私たちは、神のみこころが満たされていることを疑うことができるだろうか? 忍耐、理解、そして喜びをもって、根気強く祈るなら、私たちは神の意志が、変わることなく常に満たされていることに気付くであろう。