休暇中に、私の銀行口座から預金が盗まれた。残高は7ドルばかりになっていた。個人情報を盗む犯罪があることは知っていた。犯罪者は他人の個人情報を使って、欲しいものを手に入れるのである。そこで最初私は、電話の相手が正当な相手であるか確かめもせずに、自分のクレジットカードの情報を教えてしまった自分を責めた。私は権利を侵害されたと感じ、怒りが込み上げてきた。
私は何度も祈って神に心を向けることで、これらの感情を克服し始めていた。聖書には次のように書いてある:「神はわれらの避け所また力である。悩める時のいと近き助けである」(詩篇46:1)。この損害を覆すことは不可能であるように思いながらも、私は、もちろん、この神の約束に頼ろうと心に決めていた。
銀行預金は、私にとって、愛に満ちた父-母神から贈られた善を意味していた。次の考えが頭に浮かんだ:「善いものは、本当には失われることも、盗まれることもあり得ない、なぜなら神が与える善は霊的であり、物質的ではないからである。神は無限であって、私たちは決して神から離れることはないのである」。
また、メリー・ベーカー・エディの次の詩の一節に助けられた:「待ちなさい、そして、どんな憎しみ、恐れについても、もっと愛しなさい。悪は存在しない — なぜなら神は善であり、損失は、収穫となるのだから」 (詩集 p.4)。 私は「どんな憎しみに対しても、もっと愛する」必要があった。私の預金を盗んだ人たちの行為は明らかに愛の行為ではなかったが、私には神を待ち望み、この経験からどんな善を得ることができるか見出す用意があった。
私はまた、神性の愛、神が、無抵抗であることはないことを理解していた。実際、しばしば、エディ夫人は愛を、他の神の同意語である神性原理、すべての真の法則の源泉、と組み合わせている。そこで、私は、この経験は、神から直接与えられる善が常に現存することをより深く理解するよう探究するための、そしてまた恩寵を期待するための、機会なのであることが分かった。
この祈りに力づけられて、私はこの事件を銀行に報告した。銀行の担当の責任者は、私のクレジットカードと小切手で引き出す預金口座を即座に凍結してくれたが、詐欺の被害については、事件の調査が完了するまで払い戻しはできないと言った。これは良い知らせではなかった。引き出された預金はかなりの高額で、残ったのはごく僅かだったからである。
この時、これは非常に深刻な事態であると思われて、私はより高度な権威、すなわち神性原理、神に、より頼む必要を感じた。私は神が全能であり、遍在すること、慈悲深く優しいこと、しかも公正であり、賢明であることを理解していた。キリスト・イエスの教えについて考えていると、彼は私たちが自分を愛するように隣人を愛せよと命じ、そしてまた、私たちが自分に負債ある者を許すことによって、私たち自身の負債が許される、と言っていることを思いだしていた。
私は、これらの要求は、私たちに制限を加えるのではなく、神、善が、私たちに必要なものすべてを備えてくださることが信頼できるように、前もって積極的に推進されるのであることを知った。私は貪欲な不正直な行為を許すように要求されているのではなく、ただ単に許すことを求められているのであった。私はまた、犯罪を犯した人たちも一人一人、実は神の理念であり、彼らを本当に神の統治の下に委ねるべきことを、認識しなければならなかった。また、彼らは、彼ら生来の神の善意との途切れない関係にあって、必要なものすべてをすでに所有しているのであることを知った。
キリスト教科学の発見者であり、創始者であるメリー・ベーカー・エディは、次のように書いている:「『すべてのものが善に向かって共に働き、神を愛するものたちに益をもたらす』とは、聖書の言明である」 (『科学と健康―付聖書の鍵』、p.444)。私は神を愛している、そして、神の正義が私自身の人生において、また他の人々の人生においても、日々、実証されることを信じている。
物事が善に向かって共に働くことを目撃する権利が自分にあることを主張していると、銀行の担当の責任者が、私の口座取引明細書に示されている支払請求を何かしたかどうかと、訊ねたことを思いだした。私の口座への新規の請求が凍結されているにもかかわらず、インターネットバンキングの口座に請求が届き、「支払い手続き中」となっていたのである。請求書の下の電話番号に電話をして、電話に出た人に、私以外の誰かが私のクレジットカードを使って買い物をしている、これはその請求だと告げた。会社はまだその品物を発送していなかったので、すぐにその注文を取り消してくれた。彼らは今後の支払いをめぐるトラブルが避けられたと言って私に感謝した。
私は、この詐欺行為を覆すように事態が進展していることに感謝していたが、今回起きたことに対して覚える絶望感を断ち切れずにいた。ある時期、ひどく無気力になり、もうどうでもいいという気持ちになったが、自分を奮い立たせ、祈りは生活のあらゆる側面で有効に働き、それを実証しなければならないことを自分に言い聞かせた。そして、これまで自分の持ち物を無くしたり、盗まれたりしたときに、祈りだけによって素早く戻ってきた経験を思い出していた。
メリー・ベーカー・エディは、キリスト教科学の教科書の中で非常に注目すべき一文を書いている:「…キリスト教科学を識別する人たちは、罪を食い止めるであろう。彼らは誤りを追放することを助けるであろう。彼らは法則と秩序を維持し、究極の完全が確実にくることを喜び待つであろう」(『科学と健康』、p.97)。
私は、もちろん、神が真理であり、神性原理であることに頼って、盗難にあったものが戻り、事件が解決されるまで、「究極の完全が確実にくることを喜び待つ」ことができるはずだった。私は、この件に関連してこれまでに出会ったすべての人に感謝していた。この犯罪を犯した人々もまた、彼らの真の存在は神の所産であるゆえ、神、善と関係を持っていることを、これまで以上に明確に理解することができるようになっていた。この理解が、「あなたの敵を愛しなさい」(マタイ5:44)というイエスの命令に従う助けとなった。将来いつの日か、「あなたは盗んではならない」(出エジプト20:15)という戒律が、彼らにとって現実のものとなるに違いことを、私は確信することができた。
私は祈り続け、油断しないようにした。次の日、私のインターネットバンキング口座に、何千マイルもの遠隔の地から、また別の請求が来ていることに気づいた。私は即座にその地域の地方自治体に連絡して、私の銀行預金が詐欺にあったことを知らせた。話をした人々は、調査の上、他の公的機関にも連絡すると言ってくれた。私は正義が引き続き働いていることに感謝した。
この経験を通して、私は、自分が、慈悲、正義、真理に満ちた神を求める中で、新たな心の落ち着きと、忍耐の心を見出していることに気づいた。その週の終わりには(銀行は、調査には数週間かかると予測していたが)、口座から引き出された預金のすべてが払い戻され、また、3か所の異なる法的機関が協力して犯罪者の捜査を行なっていた。
祈りによって、私はたとえ銀行口座の残高がどうであろうとも、神の愛する子である私の真の本体、身分は、盗まれたり、傷ついたり、消し去られたりすることがないことを、明確に理解した。私たちは、一人一人、神の愛する子として創造されている。神は自らの子らを、神性原理と一体にして、正直であるように保っている。私たちはみな、人の身分は神の正直な子であることを一貫して確認し、神の指示に従って日々生活し、そして慈悲深く、愛情深い優しさと正義が勝利することを確信して、安全に日々を送ることができるのである。