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我々の祈りの真の目的

『キリスト教科学さきがけ』2015年07月31日号より

The Christian Science Journal、2015年5月号より転載


1519年、フエルディナンド・マゼランが出航したとき、彼の航海の目的は地球を丸くすることではなかった。彼はただ自分が真実であると知っていることを、実証していたのである、つまり、地球は既に丸いということだった。キリスト教科学の祈りも、これと全く同じである。キリスト教科学の治療は、つまり、それは癒しを必要とするどんな状況にも、祈りを適用することであるが、その目的は、人を完全にすることではなく、人が完全であること、それが既に確立された事実であることを、より明確に理解することであり、そしてそれを、癒しによって証明することである。

最も真剣な形而上学者であっても、時には、いかにも厳しそうな災難に出会うと、「これは大変な問題だ、これが真実でないものにするために、私は本当に大変な努力を傾けて祈らなければならない」と、思ってしまう誘惑にかられることがある。あるいは、「私は調和から外れてしまった、そこで調和を回復するために奮闘しなくてはならない」などと思ってしまうかもしれない。キリスト教科学の発見者、創始者である、メリー・ベーカー・エディは、教科書『科学と健康―付聖書の鍵』の中で、そのような考えは全く誤った前提に立つことを明らかにしている。

彼女は次のように書いている:「病を実在であるとし、― これを目に見え、感じられるものと考え ― しかもを通して癒そうとするのは、心的ないかさま治療である」(p.395)。

「誤りは『無』であることを理解しなければならない:そうすれば、そして、そうして初めて、あなたは誤りを科学によって処理しているのである」(Miscellaneous Writings 『小品集』1883-1896 p. 334)と、彼女は更に説明している。

キリスト教科学の祈りは、人はの映像と似姿に造られている、という創世記の第1章に銘じられた聖書の中心的前提から推論してゆく。が完全であるなら、人はの完全さを現さなければならない。この聖書の中心的事実に符合しないものは何でも、― 例えば、罪、病気は ― 実在についての誤った感覚を現すものに違いなく、ゆえに、真実であるはずがない。従って、我々が祈る目的は、に何かを変えてくださいと頼むのではなく、が恒久的に不変な調和の源泉であることに、感謝することである。健康を得るためではなく、健康を確認するために祈るのである。

地球は平らであるという視覚上の錯覚を科学が正すのと同様に、病気が実在するという誤った感覚は、真理によって正され、破壊される。がすべてであるという認識が、人間の意識の中で、― たとえある程度であっても ― 確立されると、不調和が現実であるように思われていたところに、調和が現れる。

もし、悪が実在するなら、悪はキリスト教科学によって破壊されるはずがない。しかし、悪は、その本当の姿、― 動物磁気 ― にまで引き下げられると、破壊されるのである。動物磁気、つまりから離れた力や実在があるという信念は、正に、我々が祈りによって処理しなければならないもの、そのものなのである。そして、、善が、全能であり、従って誤りは全く無であることを知ることによって、処理される。

この基盤に立つと、我々は、誤った信念は、不調和の状態を作り出すばかりではなく、不調和の状態そのものであることが分かる。誤った信念は、キリスト、真理、に満ちた意識においては、サハラ砂漠で雪玉を見つけることができないように、全く居場所がないのである。「がその声をだされると地は溶ける」と詩篇の作者は言っている(詩篇 46:6)。すべての物質的信念は、あの温かい真理の日の光を受けると溶けてしまう。キリスト教科学は、体に真理の光を照らし、それが体を元気づけ、清め、全きものとする、とエディ夫人は述べている(『科学と健康』、p.162 参照)。 

盲人のバルテマイが、癒されるために、上着を脱ぎ捨てて、イエスのもとに走っていったように、誤った信念は潔く脱ぎ捨てることができる(マルコ 10:46-52 参照)。あるいは、大祭司ヨシュアが着ていた「汚れた衣」を、清い衣に変えた」のは、から離れた力を信じる偶像崇拝を捨て去ることを象徴している(ゼカリヤ 3:3,4 参照)。すると、人はどのような衣を着ているのだろうか。誤りの攻撃を受け付けない新たなる意識の衣、また、一瞬一瞬、に抱かれていることによる全き安全の衣である。 

人は、の意識の中に永久に住んでいる。神の意識していることが、 人について知られ得るすべてである。と、の反映である人との間には、いかなる誤りも入り込むことができない、そこにおいて、神性の光が失われることは決してなく、調和の要素が弱められることも一切ない。人の生活、人の生涯において、善の継続が妨げられることは決してない、の守りの腕が短くなることが決してないのと同じように。 

「私は、これが真実であることを知っている、でも、…」という思いになったときは、次のことを考えるとよい、つまり、「でも」という言葉を使うと、本来、真っ直ぐに天に向かってゆくはずの思考の流れに、その流れをせき止めるダムを築くようなものである。しかし、神性の真理は、キリスト教科学の癒しを遮ったり、妨げたり、遅らせたりするものすべてを、打ち砕く。真理は、地震のように、人間の信念のもろい構造を崩壊させ、がれきと化して,塵のように消し去る。そして、真理は、ほんのちょっと触れただけで、誤りを破壊してしまうように、キリスト教科学の讃美歌の言葉にあるように「最も弱きものを強くして」(ジョン・グリーンリーフ・ウィッティァ、#96)、疑い、恐れ、抵抗、運命論、また、傷つきやすさ、絶望感を、破壊することが、十分にできる。

の無限性は、また同時に、は、常に人間経験に親密に寄り添いながら助けていることを意味する。は無限であるゆえ、は常に現存し、このの常なる現存が人間生活のほんの小さな事柄においても明白に示される。そして、の親密さは、神性の現存を伴い、そこにおいてすべての誤りが無であることが明らかにされ、またそこにおいてすべての誤りが追放される。かくして非実在とされるべき「実在する誤り」というものは存在しない、― 丸くしなければならない平らな地球は、存在しないのと同じである。

エディ夫人は『小品集』のなかで訊ねている、「キリスト教科学者たちは、病気は存在しないのに、なぜ病気を病気として治療するのか」(p.334)。そもそも病気というものは存在しないということを知ることが、たとえそれが人間の直感に反するものであっても、キリスト教科学の癒しの大前提である。この前提は、癒されるべき状況というものは絶対に存在せず、ただ、破壊されるべき暗示のみがあるという偉大な真理を解明する。これを知ると、癒し手は、確実に、「あひる」(動物磁気)を撃つことができる、そして、もはや、「おとり」(体の不調和、あるいはそれに付随する不調和)を撃ったりはしない。また、これを知ると、我々は、真理は、誤りと張り合って誤りを支配しようとしているのではなく、完全な健康と全き人という目的に向かって、威厳と権威をもって統治していることを、確信することができるのである。

『さきがけ』の使命

1903年に、メリー・ベーカー・エディは、『キリスト教科学さきがけ』を創刊しました。その目的は、「真理の普遍的活動と有用性を宣言する」ことでした。ある辞書によると、「さきがけ」の定義は「先発の使者」(先触れ、先駆け)ー 後に起こる事が近づいていることを告げるために先立って送られる者、使者」であり、『さきがけ』という名称に重要な意味を与えています。さらにまた、この定義は、私たちの義務を指し示しています。それは私たち一人一人に課せられた義務であって、私たちには、私たちの『さきがけ』がその責務を十分に果たしているか見届ける義務があるのです。この責務はキリストと不可分であって、まず初めに、イエスが、「全世界に出て行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えよ」(マルコ 16:15)と述べて、表明したものでした。

Mary Sands Lee (メリー・サンズ・リー)、Christian Science Sentinel, 1956年 7月 7日

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