自分は神に忘れられてしまった、と感じたことはありませんか? 私は大学生の時に、神に忘れられ、素通りされている、と確かに感じたことがありました。周りの人々は、みな人生を謳歌し楽しんでいるのに、私だけが傍観者であるかのように感じていました。
大学4年のとき、私は、卒業後の進路についての不安が増すばかりでした。同級生たちは、就職活動に励み、アパートをシェアする計画を進めたりしていました。周りの人たちはみな、将来の計画を立てているのに、私はそれらの計画のどこにも属していなかったのです。まるで、みな、私が卒業後どこへ行こうとかまわない、気にもしていないように、感じていました。
ある夜、ルームメイトが戻ってきて、婚約したと告げました。私は彼女のため、彼女の婚約者のために、とても嬉しい気持ちになりました、そして、翌年の夏に行われた結婚式では花嫁に付き添う役をいただいたのでした。しかしながら、この友人の嬉しい知らせは、私は自分が人生行路の落伍者であるかのような気持ちにさせてしまったのです。私はデートはしていましたが、真剣に将来を考えるようなボーイフレンドに出会ったことはありませんでした。いったい自分には真剣なボーイフレンドが現われるのだろうか、と思い始めていました。その上、40ページもの論文を書かなければならないのに、まだ本腰を入れて書き始めてもいなかったのです。私は、非常に体調が悪くなり、ベッドから起き上がるエネルギーも意欲もなくなっていました。
私は、キリスト教科学者として、それまでずっと何か問題があれば、祈りによって癒しを得てきました。そこで、週の聖書教課を読むために、『キリスト教科学クォータリー』を開きました。読んだことが、頭では真実であることが分かるのですが、気分は一向に良くなりませんでした。いらいらしてきて、聖書の中で神が約束したことは、私にも当てはまるのだろうかと、思い始めていました。聖書教課を読むのを止めて、怠けて手を付けていなかった論文に取り組むことにしました。
この体調不良が2週間ほど続いていたように思います、そして声がほとんど出ないというひどい状態になっていました。ある日、昼休みに部屋に戻り、ベッドに潜り込みました。私はひどく気分が悪く、自分が哀れで、ベッドにただ横たわっていました。すると、電話が鳴りました。電話に出る気もせず、声もほとんど出なかったのですが、とにかく受話器を取りあげました。
電話の主は、はるか遠い州に住むキリスト教科学の教師でした。私は彼に電話をしたこともなく、その実、彼と会話をしたこともありませんでした。
彼は、「ジェニー・ミュラーさんですか?私があなたの教会を訪れた時に、水泳のことで証しをしたジェニーさんでしょうか?」と尋ねられました。私はほとんど出ない声で、確かに私です、と答えました。
それから、彼は「証しをしてくれてありがとう。その後、あなたの証しのことをよく思い出し、考えています」、という内容のことを言いました。そして、電話を切る前に、彼は、「今、あなたが何か悩んでいるなら、何であれ、それも真実ではないのですよ」と言いました。
電話を切ると、私は言い知れぬ喜びに満たされていました。この教師は私の電話番号を知っているはずもなく、私が彼に電話をしたこともなく、私がこれまで彼に助けを求めたこともありませんでした。彼は電話をするように導かれ、そのため、私の名前を思い起こし、電話番号を探し出してくれたのでした。そうです、神は私を愛していたのです。神は実践士を遠隔の地から真っ直ぐ私の寮の中の部屋まで送ってくれたのです。
愛は全ての重荷を軽くし、人間の理解を越えた平安を与える、そしてそれは「しるしを伴う」。
― メリー・ベイカー・エディMiscellaneous Writings、1883-1896,『小品集1883-1896』、p.133
神の愛がこれほど具体的に私に与えられていることを実感して、涙が溢れました。ちょうど聖書の中でハガルの息子、イシマエルの話のように、神は、私がいる正にその場で私の願いを聞いてくれていたのです(創世記21:17参照)。.私は、もはや、自分が必要なものを与えられているのだろうかなどと、疑うことはありませんでした。その瞬間、私は自分が神の理念の一つとして単に一般的に愛されているのではないことを、確信しました; 私は神によって個人として、具体的に、完全に愛情深く守られていることが、分かったのです。
この後すぐに、もう一つ、実感することができました。たとえ1日でも、幾週間でも、幾年でも、自分が病気であるように感じたとしても、病気は私に属さない、私の一部ではないということが、明確に分かったのです。誰も、それが自分のものだと考えるように騙されるはずがないのです。まるで子どもの時に、ハロウィーンで着た、かぼちゃのコスチュームを着ているようなものです。どんなに長くそのコスチュームを着ていたにしても、誰も私が本当にかぼちゃになってしまったとは思いません。それはコスチュームにすぎないのです。どんなに長く病気が続いているように思われても、それは私に属するものではないのです。それは単なる幻想です。そして、それは癒されるのです。
肉体的には何の変化も感じませんでしたが、その電話が終わった瞬間、私は癒されたことが分かりました。文字通りスキップしながら、水泳の練習に行きました。私は一刻も早く、この新しい癒しの考えをチームメイトたちに話したくてたまりませんでした。そのあと直ぐに、私は完全に元気になりました。そして大事な論文についても,最高のAという成績をもらうことができました。
それから間もなく、キャンパスの別の寮にいた婚約したばかりの友人を訪ねましたが、そこで、しばらく会っていない知人とばったり出会いました。その2、3週間後、その知人が私のボーイフレンドになっていました。私たちは2人で、彼の両親が住む町で、夏のインターンシップ(実習訓練)を受け、素晴らしい時を過ごしました。それはまさに私が必要としていたことでした。
神は、私の卒業後について気にかけ心配してくれる人にめぐり会うよう、導いてくれたのです。この素晴らしい展開を、私は驚きと感謝の思いで見つめていました、そして、それは私の人間的な努力の結果ではないことを、よく知っていました。私は、神が一人一人に与える恵みが展開されてゆくのを、自分の経験の中で見ていたのです。あのほのぼのとした関係は随分前に終わりましたが、あの経験から得たより深い愛の認識は、決して消えることはないでしょう。
キリスト・イエスの次の言葉の真理が、私の心に響いています:「あなたがたの父なる神は、求めない先から、あなたがたに必要なものはご存じなのである」(マタイ6:8)、また「その上、あなたがたの頭の毛までも、みな数えられている」(ルカ12:7)。
私は、神が神自らの約束を成就されるその方法に対して、神に深く感謝します、そして、時には、それは最も思いがけない方法であることもあるのです。キリスト教科学に心から感謝しています、また、キリスト教科学が私の人生にもたらしてきた、また今ももたらしている、恩寵に絶えず感謝しています。