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「人」という名字

キリスト教科学さきがけ』2015年09月22日号より

Christian Science Sentinel、2015 年 5 月 4日号より転載


「(は、私たちを)キリスト・イエスにあって、共によみがえらせ、共に天上で座につかせて下さったのである」(エペソ 2:6) と、聖書は約束している。私たちのこのあるべき姿に造られた人間家族について、今、理解したいと思わない人はいないのではないだろうか。

今日、名字、「家族の名前」とは、一つの家族の者たち全員が共有する名前であると定義されている。しかしながら、西洋諸国においては、名字を使うようになったのは、比較的新しいことで、中世になって使われるようになり、それは家族の職業や住んでいる地域を示すことが多かった。

しかし、歴史、近年の歴史でさえも、名字は、時には、社会に亀裂を生じさせ、また大勢の人々を不当な固定観念で縛ったりしてきたことを示している。更に有害なのは、名字は私たちを人間的歴史に結びつけようと主張することである。ところが、私たちは共に、本来、唯一の名前 — 身分、本体 — を持ち、それは私たちをと永久に結びつけ、そしてまた、私たちの永遠の霊的個性を現すものなのである。

メリー・ベーカー・エディは、出版されている彼女の全著作の中で、「名字」という言葉を一度しか使っていない。彼女は、「人とは、のもろもろの理念すべてにつけられた名字である、つまりの息子や娘たちの名字である」(『科学と健康—付聖書の鍵』、p.515)、と書いている。エディ夫人は、この言葉に続いて、を反映するということの意味を説明している。 例えば、その次のページに、「生命は生存に、真理は真実性に、は善意に反映されている、そしてそれら自体がもつ平和と恒久不変性を、授けるのである」と書いている。

私は、この名字、「人」、という言葉の意味が、初めて理解できたとき、まるで子供が初めて学校に行った日のように、 まったく新しい世界を理解する扉が開かれようとしていることに、嬉しくてたまらなかった。そして、今、「人」という名字を聞くと、それは心の平安と、私たち皆が共有するキリスト的な本性についての理解をもたらしてくれる、つまりそれは、私たちの純粋な汚れなきとの関係であり、そしてまた、汚れなきお互い同士の関係である。

私には、この特別な名字は、まるでが私たちに次のように語りかけているように思われるのである:「あなたはの家族の一員である。は、あなたが、満ちあふれる生命を永遠に反映し続けるように造った、そしてあなたが、霊的で、麗しく、善であり、真実であるものすべてを知り、そして喜ぶように造った。のうちに、あなたの希望がある、あなたの能力、あなたの生命の源がある、そしてそのすべてが、あなたの霊的本性に反映されている。あなたの居場所は安全である、そして、普遍の調和の法則のもとにある」。そして、これらのものすべてが、私たちの生活、経験に取り入れられると、非常に大きな意味を持ち、実際的な効果をもたらすのである。

何年も前のことになるが、私の働く会社に訴訟が持ち込まれた。私は、訴訟を起こした女性と会って、示談で友好的に解決できないか話し合ってみてほしい、と上司に頼まれた。私たちは、近くのレストランで会うことに同意した。 私は彼女と会う前に、そのとき覚えていた大変な恐怖心を克服するために真剣に祈った。しかし、私が決して忘れることができないのは、レストランに行ってから私に示された祈りである。

テーブルに着いて待っているとき、レストランの壁全体が鏡になっていて、当然ながら、レストランの中にいる人すべてが映っていることに気づいた。それは、人の真の霊的本体、身分は、の反映である、という素晴らしい真理を思い起させてくれた。その瞬間、次の考えが閃いた。 「私は、の現存の前に一人でいることはできない。私は、真理を一人で聞くことはできない。私は、の現存を一人で感じることはできない。私たち皆がを反映しているのだ」。この霊的反映は、法則であり、全てを含む法則、すべてを一つにする法則である。それが真の調和の根本、基盤、なのだ。

その女性は到着すると、体調が悪いので、面会は15分で終わりにしたいと言った。そこで、私たちは飲み物だけを注文した。ウェーターが立ち去ったとたん、彼女は、思いがけないことを言った、「について教えてくれませんか」と言ったのである。

訴訟問題は、私たちの会話にいっさいのぼらなかった。ウェーターが飲み物を持ってくると、女性は、ランチも頼もうかしらと言った。私たちは、1時間以上そこに居て、と、の癒しの現存について話し合った。私たちがレストランを出るとき、彼女は体調はすっかり良くなったと言い、どこで『科学と健康』を買うことができるかと聞いた。訴訟は、取り下げられた。

この話の教訓をもう一歩進めて考えてみると、全人類がの現存の前に、(の加護のもとに、)反映として、生きていること、そしての反映であることを理解することは、決して非現実的ではないということである。そして、この反映の中にあって、私たちは、物質的人格を越えて見るのである。私たちは、お互いをより純粋な、霊的な光の中で見るのである、— そしての家族として見るのである。私たちは、お互いを、より純粋に、霊的な光のなかに、そしての家族として、見るのである。私たちは、「すべての人」をの加護のもとに見ることができなければ、私たち自身をの加護のもとに見ることはできないのである。

唯一の名前 —「人」— は、私たちすべてに属するものである。この事実を受け入れ、そして理解すると、より多くの健康と調和を経験するであろう — より多くの愛、真実性、善意、そして満ちあふれる生命が、人間家族のなかで経験されていることを、私たちは知るであろう。

『さきがけ』の使命

1903年に、メリー・ベーカー・エディは、『キリスト教科学さきがけ』を創刊しました。その目的は、「真理の普遍的活動と有用性を宣言する」ことでした。ある辞書によると、『さきがけ』定義は「先発の使者」(先触れ、先駆け)ー 後に起こる事が近づいていることを告げるために先立って送られる者、使者」であり、『さきがけ』という名称に重要な意味を与えています。さらにまた、この定義は、私たちの義務を指し示しています。それは私たち一人一人に課せられた義務であって、私たちには、私たちの『さきがけ』がその責務を十分に果たしているか見届ける義務があるのです。この責務はキリストと不可分であって、まず初めに、イエスが、「全世界に出て行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えよ」(マルコ 16:15)と述べて、表明したものでした。

Mary Sands Lee (メリー・サンズ・リー)、Christian Science Sentinel, 1956年 7月 7日

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