私が出張で家を離れていたとき妻から電話があり、娘の学校の看護師さんから、娘が休み時間に遊んでいて足を骨折したようだ、と伝えてきたとのことでした。
2人の子供たちがこの学校に通い始めたとき、私たちは、学校の看護師に、私たちはキリスト教科学によって癒すという立場をできるだけ守りたいということを知らせておきました。看護師は、既に、子供たちが心身ともに健康であり、またキリスト教科学が責任ある効果的な方法で病気を治療し、癒していることを観察していました。看護師は、妻に電話で娘の状態について話したとき、自分の診断、自分がとるべきと考える処置について述べましたが、私たちが癒しについて異なる方法を持っていることを理解し、尊重してくれました。
妻は娘を学校に迎えに行き連れて帰り、キリスト教科学の実践士と連絡をとり、祈りによる霊的な治療をお願いしました。娘は、実践士と最初の言葉を交わすとすぐに、安心したようでした。
午後おそくなって、娘は「お母さん、こんなことになって欲しくなかったけれど、私はキリスト教科学について、もっと勉強するのを楽しみにしているの」と言ったのです。これは娘が完全な癒しを確かに期待していることを示すものでした、そして、それは、彼女がこれまでにキリスト教科学で経験してきたものに基づくものでした。
妻は娘の足に包帯を巻き、2人で大好きな讃美歌を幾つか聞いて、娘は眠りにつきました。娘は安らかな夜をすごしました。次の日、妻は娘を地域のキリスト教科学の看護施設に連れてゆき、外来看護を受けることにしました。娘は、初めて看護施設に行くので、いろいろ質問してきました。
娘が「それは病院みたいな所なの?」と聞くので、私たちは、違うんだよ、レントゲン室もないし、手術室もないし、お薬もないのだよ、と説明しました。また、キリスト教科学の実践士がずっとお祈りしてくださっていて、キリスト教科学の看護師は同じ霊的な立場から、実際的な手当をしてくださるのだと説明しました。
「そこには誰がいるの?」と、娘が問いかけてきたのですが、偶然にも、その日の担当の看護師は娘がサマーキャンプで出会ったことのある人だったので、娘はそれを聞いて喜んでいました。
「看護師さんは何をするの?」と聞くので、キリスト教科学の看護師は、病気だったり、怪我をした人を助けるために必要な実際的な知識や方法を知っていて、娘の足に包帯を巻いたり、松葉杖を調節してくれたりするでしょうと、説明しました。
娘は看護施設で受けた優しい、愛に満ちた手当てを喜び、一時的に松葉杖を使って、動き回れることに感謝していました。妻は、キリスト教科学看護師が静かに、大丈夫よ、と娘を安心させてくれる態度、また、彼女の明るさに感謝していました。
この事故が起こったとき、私はたまたま家から離れていたので、娘が看護施設から帰ってすぐ、娘に電話をして、2人で話しました。私は娘に「お父さんは神に祈るとき、神はお父さんについて何をご存知ですか、と聞くんだよ。それは神がお父さんについてご存知のことが、お父さんについて本当のこと、真実のことで、それだけ知っていればいいのだからね」と言いました。
すると、娘は、「お父さん、電話を切らないでちょっと待っていてね、神さまは私をどのようにご存知か、聞いてみるから」と言いました。
「もちろん待っているよ」と、私は答えました。
2分ほどの沈黙のあと、娘は神への祈りを終えて電話口に帰ってきて、「神さまが大丈夫だよ、とおっしゃった」と、言いました。
「もちろん神さまはそうおっしゃるだろうね、そして、その真理の上にしっかり立っていればよいのだよ」と言いました。
電話を切ったのち、私は静かに祈り、神に心を向け、私自身は何を知るべきか、訊ねました。私が受けた答えは大方次のようなものでした。「あなたは、今回の出張中に複数の組織の人々が分断されている事態を目の当たりにしてきた。あなたは、人々が一つの神の心から離れて、分断され得ると信じる誘惑にかられている。もし家が内わで分かれ争うなら、その家はどうなってしまうだろうか。その家は立ち行かないであろう(マルコ 3:25参照)。神は神の子らの分断などということを、ご存じだろうか。神は、ある組織を分断し、組織が持続することを、あるいは一人の喜びに満ちた少女の体の動きを、邪魔し、不安定にする、などということがあり得ようか。そんなことは絶対にない。神は神の子らすべての、力、調和、善意の継続することのみを知っておられる」。
この理解を得て、私は、直ちにキリスト教科学の実践師に電話をかけ、実践士と私は、人類は、娘も含め、分断されるという信念の重荷から免除されていることを確信するように祈ることで、同意しました。
娘の症状は急速に良くなってゆきました。娘は毎日キリスト教科学の看護施設に行き、日ごとに快方に向かっていきました。事故の4日後、娘は包帯をはずし、松葉杖も施設に返却し、兄弟を追っかけて廊下を走ったりしていました。5日目には学校に戻りました。
家族一同、娘が、キリスト教科学の看護師から受けたすばらしい看護や、実践士から受けた効果的な霊的治療に、言い表すことができない程の感謝を覚えました。私は「マタイによる福音書」の次の言葉を思い起こしています:「ふたりまたは三人が、わたしの名によって集っている所には、わたしもその中にいるのである」(18:20)。
癒しのあった次の週、学校の看護師が廊下で妻を呼び止め、娘が学校に戻って、走り回っているのを見て、本当に驚いてしまったと話してくれました。看護師はまた、もう一度、娘の足を見て、足は完全に正常に見える、あのときは確かに骨折していると思ったのですが、と言いました。
この経験は、私たち一家に、神が神の創造したものに与える加護の力に対して、これまで以上の感謝の思いを持たせてくれました。この加護は、人間的に見ると、包括的な、信頼できる支援のネットワークでした、つまり、愛に満ちた両親や家族、キリスト教科学の看護師、キリスト教科学の実践士、キリスト教科学の教会礼拝、日曜学校の先生方、『キリスト教科学クオータリー』に示されているキリスト教科学の聖書教課、その他のキリスト教科学の刊行物などがともに働いたのです。「わたしはあなたがたを捨てて孤児とはしない。あなたがたのところに帰ってくる」(ヨハネ14:18)。
米国、マサチューセッツ州、ナティック
エリツク・バショウ
Eric Bashor